静岡新聞論壇

2003年 

駿ちゃん事件「失言」に思う

道義的な責任の取り方とは

長崎の駿ちゃん誘拐・殺人事件に関する鴻池・防災担当大臣の「打ち首失言」には一理がある。非難より激励の手紙の方が多かったという。

中学生は、責任能力がないから、刑事責任を問われない。その上、もし道徳的責任を強く感ずる人が、誰もいなかったならば、両親は嘆きと怒りで悶死しそうだろう。駿ちゃんも浮かばれない。

道徳的な責任の取り方とは何だろうか。先ず、保護者である中学生の両親が駿ちゃんの家を訪ねて謝罪し、駿ちゃんの両親の激しい非難に耐え、息子に罪を強く自覚した生涯を送らせることを誓う。毎年罪を自覚した生活振りを報告する。次いで担任の先生・校長、教育委員は、駿ちゃんの両親の前で、また公開の場に出て謝罪すると同時に、今後、事件の再発を防ぐために、教育のあり方を考え、改革の決意を述べることだ。他の生徒の精神的混乱を抑える努力だけでは教師の資格がない。

警察は男の子供に対する悪戯事件が頻発していることを知りながら、近くの住民に知らせなかった。明らかに警察のミスだ思う。その理由を詳しく公表し、それに対する住民の反論に耳を傾け、今後、どのように対処するつもりかを述べる責任がある。

現在、日本の公的組織の隅々までモラルが腐っている。そこには責任を取るというシステムがまるでない。まず、官庁機構では、手続きさえ踏んでいれば、どんなに大きな失敗を犯しても、責任を取らずに済む。バブル経済の発生や激しい崩壊は、明らかに金融政策・財政政策や土地政策の失敗によるものだった。

最近10年以上にわたって、景気刺激のために政府は無駄なハコモノを全国に沢山つくった。自動車が殆ど走らない四車線の道路、利用率が低い大型ホール・豪華な保養所、三〇〇年に一回の水害を防止するためのダム等あげればきりがない。そうした大規模なハコモノ政策の結果、日本経済全体の資本効率が低下し、財政が破産状態に落ち込んだ。日本経済は長期低迷から抜け出せなかった。

政策の失政の結果、多くの企業が倒産し、失業が増えた。銀行も破綻した。多くの経営者は辞め、株主は損失を受け、従業員は職を失った。しかし、誤った政策を企画・実施した役人は、誰も責任を取らなかった。無駄なハコモノ建設を決めた人達も無傷だ。それどころか、天下りを繰り返し、何回も退職金を受け取っている。大学の先生にもなって、日本経済を論じている人もいる。また、ハコモノ誘致に走り回った政治家は、しっかり政治的地位と影響力を維持している。

「見て見ぬふり」の時代終わる

誰でも、一旦、責任感を喪失すると、それからの生活は気楽になる。また法や規則を守らない生活も心地よい。そうした気楽な生活を送るのは、人権の一種だと主張する人権派の学者・評論家もいる。彼等は中学生の両親に公の場で謝罪させるのは人権侵害だと確信しているらしい。子供の人権を尊重すべしという要求に沿って、義務教育はゆとり教育に変った。しかし、子供の凶悪犯罪は増え、学力の低下が目立っている。ここでも、責任を取る人がいない。

今回の痛ましい事件で、犯人発見のきっかけになったのは、繁華街の防犯ビデオだった。住民は警察の防犯力を信頼できないので、自ら防犯力をつけ、それが不幸な役立ち方をした。国家が信頼できなくなった時には、自己責任の自覚が重要だ。それと同時に、他人に対しても、落ち度があった時には厳しく追及するという緊張感ある生き方が、日本をモラルの崩壊から救うように思われる。「見て見ぬふりをする」のは日本的美徳だったが、そういう時代はもう終わった。「打ち首失言」には、そういう意味があったと思う。

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