随想・書評

静岡商工会議所報[Sing]3月号 掲載

清水次郎長の富士山麓開墾

倒幕軍から沿道警備役を命ぜられる

清水次郎長は、慶応4年、駿府に進駐して倒幕軍の治安責任者(差配人)の浜松藩・伏谷如水から呼び出され、「沿道警護役」を任命された。時代の流れに鋭敏な浜松藩は、早々に官軍側に寝返り、駿府城周辺の治安を守るため、49歳の次郎長を侠客の時の罪を水に流して正式の治安統括官に起用した。

伏谷如水は慧眼だった。次郎長はアウトロウの世界に生きてきたので、官軍・幕府軍の何れに対しても、義理も恨みも感じていないから、中立的な行動を取るに違いない。また、街道一の博徒の大親分なら、卓抜した政治力も備えているだろうと判断した。

事実その地位は腕力だけでは確保できない。賭博は御法度であるから、八百長賭博にかかっても訴える先がない。賭博世界の繁栄のためには、ルールを決め、それを実現させる政治力が必要だった。

裏の世界の成功者は、1,客のニーズをよく知り、2,官憲との対立を避け、3,ルール違反者に対してはタイミングを計って断固攻撃し、4,幅広い情報を集め、誰でも納得できる常識的な行動をとれる人だ。

駿府に移住した幕臣を支援

維新の時には、徳川の幕臣が静岡藩に移転するため、家族を含めて10万人近くが清水に上陸した。一種の難民である。次郎長は直ちに、お寺・神社等の宿泊所を探し、混乱を収めた。

また咸臨丸事件では、清水港に故障で停泊中の咸臨丸が官軍に襲われ、港内に放り出された幕府の武士7名について、「幕府軍に味方する者は極刑」というお触れを無視して、次郎長は手厚く弔った。

当時の駿府には、西周、中村正直、渋沢栄一等海外経験がある超一流の幕臣知識人が集中しており、また徳川慶喜の蟄居所には新門辰五郎が常駐し、次郎長の親友・山岡鉄舟が頻繁に訪れた。慶喜は駿府では写真、投網、自転車の趣味に生き、投網のお供は次郎長だった。次郎長は侠客時代に鍛えた情報吸収力、幅広い常識、交渉力、人間的魅力を発揮し、彼らの知識を借りて新事業に手を出した。富士山麓の開墾、清水港の開発、エネルギー革命を予想した相良油田の試掘、駿府藩の英語の達人を利用した英語塾等がその典型である。

富士山麓で、お茶栽培をめざす

富士山南麓は幕府の天領だったので、静岡県令の大迫貞清が失業救済のため、2000円を基金として、明治7年から17年まで富士市大渕字に76ヘクタールの茶畑開墾事業を実施した。当時、お茶の対米輸出は年間2万トンを越えており、日米通商条約によって関税の自主権を失い、貿易赤字が累増していた日本にとって、重要な輸出品であり、国内の茶需要も順調に伸びていた。

次郎長は開墾事業を引き受け、清水港近くに設置された囚人の改心所から開拓作業者を選び、富士山を背景とした素晴らしい景観の中で、矢来を撤去し、鎖を外して仕事に就かせた。現場監督は大政に任せた。彼が亡くなった明治13年以後は、明治の五大歌人の一人であり、当時次郎長の養子になっていた天田五郎が受け継いだ。

その頃、遠州牧野が原では、1000ヘクタールの大茶園が、幕臣や新撰組隊士によって開発され、成功を収めた。次郎長はこの茶園を見学して自信を付け、清水港を整備して、直接に対米輸出する計画を建てた。横浜の商社を通すと、かなりの手数料を抜かれるからだ。

ところが、富士山麓はお茶の栽培には寒冷過ぎた。当時は「やぶきた」のような寒冷地に強い品種がなかった。結局、茶園開発は失敗に終わったが、それでも、50年後の昭和8年には、杉檜の苗木600万本、陸稲300俵、小麦800俵、甘藷2万貫(それぞれ年産)が生産され、300人が働いたという資料が残されている。

維新後、侠客として生計を建てられなくなった子分達は、富士山麓の開発事業によって囚人を見張りながら開墾するという真っ当な仕事に付き、維新の混乱期を乗り切ることができた。次郎長は、子分に敬愛されて団結の固い清水一家を築いたが、子分の失業対策でも成功し、忠誠心に報いた。

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