価値総研「Best Value」

2015年7月

大国の戦略(第2部) ~アメリカ経済の覇権と混乱 (Ⅰ. 新教徒の国家)~

1. 神が与えた国・新大陸

新大陸では、17世紀の初めに、オランダ、フランス、イギリスによる植民地の争奪戦が始まり、次第にイギリスが優位になった。

イギリス人は1602年に始めてバージニアに移住した。食料や水がなく、辛うじて全滅を免れたのは、後続移民の到着とインディアンの協力だったという。

メイフラワー号がプリマスに着いたのは、その18年後である。この船に乗船していた清教徒は102名の中41名であり、残りの人は、宗教的な理由ではなく、貧困から逃れるためだった。彼等は、インディアンの食料を盗み、酋長を殺害して飢えを凌いだが、最初の冬で半分以上が死んだ。

そんな危険な新大陸に、その後イギリス人が続々とやって来た。17世紀のヨーロッパは寒波に襲われて食糧不足に苦しみ、ジャガイモによって、餓死を免れるという状態だった。また、ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントとの激しい宗教戦争が起き、先鋭的なプロテスタントである清教徒は弾圧された。飢えや貧困を逃れるため、或いは清教徒の聖地を開拓するため、多くの人が夢を抱いて未知の世界に乗り出した。

ヨーロッパ人は、アメリカの風土をすっかりヨーロッパ風に変えた。動物や植物をヨーロッパから持ち込み、森林を伐採して馬、豚、羊の牧場に変え、小麦、大麦、リンゴ、蜜柑、葡萄、レモン等の農場や果樹園をつくった。

入植者は、イギリス人の他に、30年戦争で苦しめられたドイツ人、オランダ人、スウェーデン人等のプロテスタントであって、勤勉と節約と聖書を読む生活を続ければ、神から救済される可能性が大きいという信仰を懐いていた。新大陸には教会は殆どなく、牧師は「個人として」孤独に生きる移民を訪れ、ともに祈った。入植者が持っている書籍は、聖書だけだった。

彼らは、単独で未開の大地に挑んだ。ロラン・バルトは、「中世は聴覚の時代」だったという。人々は神の存在を耳で聞き、心で感じた。風の音、木のざわめき、川の囁きに、神を感じ、宇宙が動く軋みを悟った。山折哲雄さんによると、親鸞は仏法に触れる究極は「耳法」だと述べている。都市が現れて自然が消え、望遠鏡や顕微鏡が発明されると、「視覚の近世」に移った。

入植者は自然の中で孤独な生活を送る時、神の声を聞き、「神から与えれた土地を開墾する使命」を感じて、貧しさに耐えて働き続けたに違いない。彼らの前には、無限の未開地が拡がっており、輪作をせずに、農地の収穫量が低下すると、そこを捨て新しい農地を開墾した。彼らのフロンティア精神は拡大し続けた。

2. ヨーロッパ文明の移植

新大陸では、インディアンが長い歴史を通じて築いた宗教、伝統、習慣、倫理の下で生活しており、入植者が遙かに大西洋の向こうから持ち込んだキリスト教を理解できるはずがなかった。

入植者には、母国で宗教的信念を変えず弾圧に耐えた信者や、宗教戦争を通じて高い戦争技術を培った兵士出身者が多かった。彼らは異教徒のインディアンを殺害し、また免疫力がない彼らはヨーロッパの伝染病に罹って死んだ。コロンブスが北米に到着してから20世紀の終わりまでに、インディアンの人口は100分の1近くに激減したと推測され、その文化は破壊された。女・子供から老人まで集落全員が殺されるという悲劇も数多く起きた。入植者はインディアンや荒くれ男から身を守るため、銃が必需品だった。

入植者は、ヨーロッパの先端文化である「プロテスタントの精神・自由・基本的人権・民主主義」の思想を直輸入して、インディアンの国をヨーロッパ人の国に変え、アメリカは人種の坩堝になった。

しかし、人種の中には黒人とインディアンは含まれなかった。初代大統領のワシントンは、大勢の奴隷を使っていた。トーマス・ジェファーソンは「すべての人間は平等に生まれた」と独立宣言で書いたが、多数の奴隷を使い、彼等が死んでも、墓さえつくらないような農園経営者だった。リンカーンは人間は平等だと強調した。それは、イギリス本国人とアメリカ入植者とは平等だという意味であって、奴隷は眼中になかった。

アメリカ人は、神の期待に応えて、新天地を求めて中部や西部に進出し、19世紀中頃には、メキシコやスペインを攻めて、カリフォルニアとテキサスを併合した。

南北戦争は近代火器を使った総力戦であり、戦死者数は合計で62万人に達し、アメリカの歴史では最も激しい戦争だった。北部の人はアメリカの全ての州が一体になって保護貿易制にして関税を高め、金属・機械産業等の基幹産業を育成したいと願った。奴隷を解放して低賃金労働者として使い、工業の国際競争力を高めた。そもそも奴隷制は教育上問題である。奴隷の子供が殴られ、犬のように扱われるのを見て育った白人の子供は、人間性を欠いた悪者になる。

南部の人にとっては、綿花栽培には黒人奴隷の労働が不可欠であり、奴隷制のお陰でアメリカの綿花価格は低く、国際競争力が強かった。そのため、自由貿易を強く主張し、アメリカ連邦からの脱退を望んだ。双方は譲れなかった。北軍は、戦争の目標を保護貿易の維持や南部の独立抑圧から、多数を占めた福音派プロテスタントが強く主張した奴隷解放という人道的な問題に変え、北部住民の支持を集めた。

その頃、北部を中心として重化学工業は軍需によって急速に発達し、金融市場も拡大した。戦場はペンシルバニア州南部で展開したので、経済力は無傷の北部に移動し、産業革命が起きた。政府は、戦時国債の発行によって得た巨額な資金を、民間の鉄道や重工業に惜しみなく投入した。

19世紀後半から20世紀始めにかけて、工業は手厚い保護関税に守られて発展し、経済成長率は年率4.5%に達し、一人当たりGDPは2.5倍になった。

鉄道、鉄鋼、石油、金融、ミシン、電話、電機等の分野では、グールド、カーネギー、ロックフェラー、モルガン、シンガー、ベル、エジソン等の独占企業が生まれ、独占価格の維持、競争企業の排除、株価操作等、悪徳商法が拡大した。

19世紀のアメリカ経済は、政府に保護されて財力や技術力を蓄積した強盗貴族のような企業が増え、独占市場を形成し、原野の経済を荒らし回るという状態だった。しかし、19世紀終わり頃から20世紀の始めにかけて、独占禁止法が制定されて、政府が独占企業を監視し、また銀行制度が生まれ、アメリカ経済は正常になった。

3. 「丘の上にある町」というアイデンティティー

アメリカは、1875年頃には、世界一の工業国に躍り出た。しかし、宗教、芸術、食料、習慣等、何れもヨーロッパからの輸入品であって、独自性に欠けていた。その上、19世紀には、イギリス人、ドイツ人、アイルランド人等、多様なヨーロッパ人が入植し、中途半端なアメリカ人がどっと増えた。

移民(新入植者)は、アメリカン・ドリームを抱き、目標は経済的な成功であり、社会から尊敬を受けることや社会を改善することには関心がない。

彼らは親戚も友人もいないので、新しい社会に溶け込むため、周囲の人と同じ行動をとり、同じ話題を話し、多数の意見に従おうとする。個人的な思想や主張を差し控えるのが、溶け込む早道である。

アメリカ人は、お互いに明るく挨拶し、余程親しい関係にならない限り、愚痴を云わない。前向きに元気に生き、経済的な成功に向かって努力する。カーネギーはアイルランドから、ブラハム・ベルはスコットランドからの貧しい移民であり、神は彼らに祝福を与えた。アメリカ人は、神の祝福を受ける可能性があると思い、努力をした。

個人的信念に基づいて勝手に行動する人が多ければ、社会はバラバラになり、アメリカ人とは何かが判らずに、愛国心が生まれない。それを防ぐのはアイデンティティーの確立であり、それが独立以来の課題だった。

アイデンティティーは、建国を担った清教徒の信仰に求められた。清教徒は強烈な終末感を抱いており、イギリスでは国教会が堕落し、終末に備えた理想的な社会を作ることができない。彼らはアメリカこそ、「マタイによる福音書」で示された理想社会の「丘の上にある町」を建設する場所であると信じた。

アメリカは、「過去も、遠く離れた祖先の地も、置き去りにし」、神との契約によって「丘の上の町」を建設することを宿命づけられた人から成る特殊な国であると思われた。アメリカ人が、熱心に働いて豊かになり、またアメリカの領土を拡大すれば、一層「丘の上の町」の建設は確かなものになる。

しかし、「丘の上の町」の建設に参加できるのは、白人だけだった。1893年には、未曾有の大不況が発生し、失業者が街に溢れ、激しい労働争議が増えた。94年には、西部では大規模な鉄道ストが起きて、シカゴでは連邦軍が出動し、死者は30名を越したと言われている。

世の中は騒然とし、白人には有色人種が職を奪っているように思えた。南欧人や東欧人は、西欧人と外見が異なっていたが、彼らは全て白人である。黒人と黄色人種が差別され、19世紀の終わりには、アメリカ人から除かれた。

「白人は希望を持って、黒人は鎖に繋がれて」、ともにアメリカを建設したにも拘わらず、黒人は選挙権を奪われ、公共の場では白人と差別された。最高裁は「差別されども、平等」という不可解な判決を下し、学校、レストラン、ホテル、列車、裁判所など、市民生活のあらゆる分野で黒人は差別を受けた。

黒人リンチは、南部の州では、毎日、どこかで行われた。猿谷要さん(「物語アメリカの歴史」・中央公論)によると、「信じがたいことであるが、黒人に対するリンチが予め予告され、女子供までみて楽しむために集まり、木につるされた奇妙な果実のような死体から、心臓や肝臓の薄切りを土産に持ち帰った。」

リンチによる殺人数は、1885年から1930年の間で、ジョージア州では460人、ミシシッピー州では450名と公表されているが、実際には、その10倍に達していたという。神に選ばれた人種と、選ばれなかった人種との格差は余りにも大きかった。その意味でもアメリカは特殊な国になった。

4. 神が導いた帝国主義

経済不況を脱出し、経済成長に転ずる方法の1つは、領土の拡大である。それによって、開発投資や武器需要が増え、消費財の販売市場が拡大し、かつ低賃金労働力を獲得できる。19世紀中頃には、アメリカの領土は西海岸まで拡大し、1890年代から海へ進出した。1898年にはスペインと戦争して勝ち、キューバを独立させてアメリカの支配下に置き、グアム島、プエルトリコ、フィリピンを割譲させた。

またハワイ王国を征服し、ミッドウエイ諸島を領土にした。ハワイ国王は日本に救援を求めたが断られた。フィリピン人は、アメリカの植民地支配に対して執拗な反乱を続け、5万人のフィリピン人が殺された。アメリカ軍の死者は4,300人に過ぎなかった。後に第26代大統領になり、反独占政策を実施したセルドア・ルーズヴェルトは、フィリピンを植民地にした時、「フィリピン人は自治に全く適さず、将来、自治に適するようになる何らの兆候もない。」と断言した。 アメリカの海外進出は明らかに帝国主義的侵略だった。

ダーヴィンは、1859年に「種の起源」を発表し、その直後からアメリカでは、ソーシャル・ダーヴィニズムと言われる理論が拡がり、独占企業と帝国主義的侵略が擁護された。

ソーシャル・ダーヴィニズムとは、人類でも自然界と同じように、生存競争を重ねる中で適者が勝ち残り、弱い者を支配下に置くという理論である。強者が勝って巨大企業を築き、弱者は吸収合併される宿命にある。優れた才能、不屈の努力、偉大な決断力など、何れをとっても、素晴らしい人材は巨大企業を育て巨万の富を築くと同時に、弱者を指導する義務があると言うのだ。カーネギーは天文学的な額に達する資産を社会に寄付し、遺産を残さなかった。ソーシャル・ダーヴィニズムの手本のような人だ。

ソーシャル・ダーヴィニズムの信奉者は、19世紀の終わり頃、国家も同じように強い国家が支配権を握り、弱い国家を支配する義務があると主張した。有賀夏紀氏によると、(「アメリカの世紀」・中公新書)、コロンビア大学のバージェスは、「最高の政治的能力を持つアングロサクソンおよびチュートン民族は、その卓越した政治制度を他の遅れた民族に伝える義務がある。それは、人間が野蛮状態に置かれる権利はないからだ。」と述べ、またプロテスタント牧師のストロングは、「市民の自由と純粋なキリスト教を代表するアングロサクソン、特にアメリカ人は、それを世界に広めることを、神から委ねられている」と論じた。

WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)がアメリカを支配すべきである、との考え方である。実際、経済の急成長とともに 企業経営者、管理者、弁護士、技術者、医師等の専門的職業が増え、WASPがそれを担い、郊外の住宅地に中産階級を形成した。

ソーシャル・ダーヴィニズムによれば、アメリカ国家の樹立、フロンティアの開拓、太平洋に向かった帝国主義的侵略は何れも神から委ねられた任務になる。この思想は2次大戦中における「神国日本」における八紘一宇の思想とそっくりである。

5. キリスト教の反省

第一次大戦では、西ヨーロッパ人が1,400万人死に、フランスでは20才から32才の男性の半分が命を落としたが、アメリカの犠牲者は1万5,000人と南北戦争の50分の1に過ぎず、またアメリカの国土だけが、戦争の被害を被らなかった。この大戦の実質的な勝利者はアメリカだった。

戦後間もなく、アメリカ経済は繁栄し、世界初の高層ビル「摩天楼」がシカゴに造られ、ジャズが流行し、女性はコルセットやロングスカートを捨てて、断髪にパーマネントをかけて「女」を強調した。大学に進学し、専門職に就く女性が増えた。1920年代には、フォードの自動車やトーキー映画がブームになり、大西洋単独飛行のリンドバーク、ホームラン王のベーブルースといった新しい英雄が現れた。

こうした新しい文明は、「丘の上の町」の建設を求める保守的清教徒の反感を呼び、清教徒は、後1000年説と前1000年説の2つの学説に分裂した(森孝一「宗教から読むアメリカ」参照)。「ヨハネの黙示録」によると、この世の終末の前に、キリストが再来して、至福の1000年間が到来するという。それを巡る論争では、1000年王国が実現した「後」に、キリストが再臨するという「後説」と、1000年王国の「前」にキリストが再臨し、キリスト自ら王国を建設するという「前」説に分かれた。

「後説」は、人間が深い信仰を持って、勤勉・節約の生活を送り、社会を進歩させれば、自然に1000年王国が築かれ、キリストの再臨を迎えられる。我々はその寸前にいるという。これは近代化を是認した学説といえよう。

これに対して、「前説」によると、この世の中は腐っており、キリストが再臨して自ら世の中を変え、1000年王国を迎えるのである。「前説」の信者は、現在の腐った社会を放置すれば、キリスト再臨の時、我々は地獄に落とされるという。

彼らは近代化に反対し、モラルや習慣は聖書の時代に戻るべきだと主張した。農村で強く支持され、1920年に禁酒法が成立した。またマルクス主義、進化論、フロイド学説は危険思想として拒否し、避妊にも反対した。共産主義者と疑われた600名が逮捕され、アナーキストのイタリア移民は別件で逮捕・処刑され、進化論を教えた高校教師は牢に繋がれた。

6. プロテスタント大統領と経済対策のすれ違い

アメリカでは、独立以来、プロテスタントがエリート層を形成し、プロテスタントの大統領が続いた。ケネディー大統領だけがカトリックだった。プロテスタント大統領は何れも信心深かった。

国際連盟を提案したウイルソン大統領は、真面目なプロテスタント(プレステリアン派)であって、独占に反対し、競争原理が機能する小企業から成る経済社会を創ろうとした。彼は大統領の仕事は、熱心に働き、質素な生活を送った人が、成功する環境を整えることだと信じていた。

1920年代中頃、アメリカ経済は繁栄を極めた時の大統領・クーリッジは敬虔な信者であり、働くことは神への奉仕であり、ビジネスは尊い仕事だと考えていた。大恐慌が到来した時の大統領だったフーバーは、熱心なクェーカー派信者であって、冗談も言わずに、土・日曜もひたすら働き、クリスマスでも朝早くに出勤し、倫理的な生活を貫いた。

彼は、大恐慌が発生した時、経済政策の基本を、1.財政規律を守る、2.関税を引きあげ、国内産業を保護する、3.金利を引き上げて金の国外流出を防ぎ、ドルの信用を守ることに置き、不況対策として、公共事業は増額されたが不十分だった。

貧困について、彼はプロテスタントの隣人愛によって解決すべきと考え、失業手当は考えなかった。如何にも、プロテスタントらしい政策であって、大恐慌を防げなかった。

1929年から32年にかけて、3,600の銀行が倒産し、失業率は40%を超え、GDPは半分に落ち込み、大衆が激しいデモを繰り返し、鎮圧のため軍隊が出動した。後に日本占領軍の総司令官になったマッカーサーは、この時、正義感に燃え、ワシントンで4台の戦車と200騎の騎馬隊を引き連れ、社会秩序を乱す8,000名の大デモ隊に突入し、蹴散らした。

アメリカ経済が需要不足と過剰設備に苦しんでいる時、プロテスタントの節約・勤勉の倫理は有害だった。時代の要請は、どしどし消費して、需要を増やすことだった。また、企業の自由な活動によって、競争が激化し供給力過剰に陥り、失業が増え、不況が激化しているので、政府による競争の制限や設備投資規制が必要だった。

また輸入を制限すべきではなかった。ヨーロッパ諸国は不況に苦しんでおり、世界最大の経済大国になったアメリカは、輸入を拡大して海外経済を刺激すれば、やがて、アメリカの輸出が増え、世界経済もアメリカ経済も好転するはずだった。

敬虔なプロテスタント・大統領は、個人が自由に経済活動をし、自己責任をとるという制度が、豊かさを実現し、幸福をもたらすと信じ切っていた。残念ながら、国民経済と世界経済を感情や道徳ではなく、マクロで考える観点が欠けていた。

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