静岡新聞論壇

2005年 

吉野俊彦氏をしのぶ 経済と鴎外研究に徹した生涯

議事録より正確な日記

吉野さんは途轍もなく大きなスケールのエコノミストであり、昭和20年代から最近まで半世紀以上にわたって大活躍された。

昭和30年代後半には、吉野さんと池田首相のブレーンであった下村治さんとの「高度経済成長か安定成長か」という論争が雑誌上で何回も展開され、多くの経済官僚や経済学者が固唾を呑んで、論争の行方を見守ったものだった。また吉野さんは優れた金融史学者でもあって、東京大学における講義録を纏めた「我が国の金融制度と金融政策」は古典的な名著である。

吉野さんは、日本銀行の調査課長や調査局長を務めながら、経済論文を発表したので、軍医総監と小説家という二足の草鞋を履いた森鴎外と自分とを重ね合わせて、鴎外の生涯を研究した。鴎外は永井荷風を高く評価して慶応大学教授に推薦したが、驚くことに、吉野さんは、そのことから、新たに荷風の研究に着手し、ついで荷風が思想的な影響を受けた河上肇にまで研究をひろげた。

吉野さんの家の母屋には経済評論を書く部屋があり、離れは鴎外の研究に当てられた。それらの部屋には、それぞれ2つの机があって、「経済の現状分析」と「人物経済史」、「鴎外」と「荷風」というように、同時に進んでいる研究に使われ、晩年には午前中が経済研究であり、午後は鴎外研究だった。

日記には私的な記録と、経済に関する記録と2種類あった。バーに行った時でも日記を正確に書くため、ホステスの名前をメモされた。日銀時代に記した理事会についての日記は、日銀の議事録よりも正確だという。日記の作成に1時間近くを割く日もあり、書かれた日記が書庫の書棚を幾つも占領している。

本や資料が広い家に溢れているが、吉野さんの頭の中には整然と整理され、何処に何があるのかすぐ判り、何時でもどんな経済のテーマでも書ける体制になっていた。まさしく研究に徹した生涯だった。

生涯の研究成果は、経済に関する著作約120冊、森鴎外で約20冊、永井荷風と河上肇で約4冊に纏められている。驚くべきエネルギーである。吉野さんは、毎日新聞の経済人賞の選考委員長を長い間努められ、毎年の受賞パーティーには、原稿なしで話しかけるように語る選考評を聞くために、大勢の人が集まった。今年は残念ながら「吉野節」が聞かれず、代わりに400字詰め原稿用紙15ページの見事な選考評が届けられ、副委員長が代読した。

心血注いだ資料は寶

吉野さんは本郷の西片町の育ち、両隣と向かいには、哲学者の和辻哲郎、医師で詩人の木下杢太郎、歌人の佐々木信綱が住み、子供の頃にはよく遊んでもらったそうだ。中学校に入学した頃、金融恐慌によって、悲惨な生活に落ち込んだ友達を間近に見た。

太平洋戦争中には、日銀の調査部に勤務し、横須賀まで出掛けて入港したドイツの潜水艦から極秘資料を受け取って、ヨーロッパ経済の分析をし、昭和20年に入ると、敗戦後の日本経済の復興計画を研究し始めた。こうした多様な経験が特異なエコノミストを育てたと云えよう。

私は東京大学の学生の時、吉野さんの講義を聴き、それ以来第2の吉野を目指したが、遂に足下にも及ばなかった。しかしNHKの「一億人の経済」では2年間も一緒の解説者になり、また最近では私を「静岡新聞の論説仲間だ」と人に紹介し、「論壇」に書くのが楽しみだと言われていた。

吉野さんが心血を注いで収集された資料と日記は現代経済史の寶であり、ずっと保存したいものだ。

ページのトップへ