静岡新聞論壇

2005年 

中心市街地の再生が必要

地方文化が危機に直面

愛知地球博には、2200万人の老若男女が押し寄せた。それは一種の巨大な縁日であって、訪れた人は、樹木の匂いがする長い道を、人の流れに乗ってパビリオンやイベントを覗きがら、夜遅くまで散歩するのである。 名古屋はアメリカ型都市であって、中心部では道路が広過ぎるため、ぶらぶら歩きする気になれない。愛知博でリピーターが多かったのは、名古屋の人達が、アメリカ型の都市を嫌い、路地が多い伝統的都市に対して強烈な郷愁を抱いたからに違いない。

ところで、日本の中都市はアメリカ型に変わり、中心部にはビル・ホテル・駐車場が、また郊外には大型店が立地したので、自動車を利用すれば、生活が便利になったが、その代償として中心市街地が衰退して、人通りが減った。静岡市もその例外ではない。

そこでは、商店が郊外のスーパーや大型専門店の競争に敗れて閉店すると、直ちに、コンビニ、100円ショップ、薬屋の全国チェーンが入り、原色を使った派手な看板を掲げ、かっては老舗が店を連ね、荘重な佇まいだった商店街は崩壊した。その上、最近では、飲み屋チェーンが地方都市に進出し、地元料理の味まで消え、地方文化が危機に直面している。

今や、地方都市は、百貨店、スーパー、コンビニだけではなく、コーヒーショップや飲み屋まで外部資本に席巻され、小売りサービス業における本社機能は県外に移り、そこで店の新設・閉鎖が決められ、市民は誰も意志決定に参加できなくなった。

どんな商店街でも、店主が郊外から店に自動車で通勤し、また地元のお寺やお宮が住民の生活から離れると死んだ街に変わり、結局、外部資本に支配されるものだ。

ヨーロッパには伝統型都市が多く、中心市街地では、狭い道路沿いに商店やオフィスが連なり、路面電車やトロリーバスが主たる交通手段である。商店主はそこに住んでいるから、教会があり、緑が守られ、夜まで賑やかであり、日曜日には教会の前に朝市が建つのだ。

高齢社会のあるべき都市像

日本における伝統的市街地の代表は、東京・巣鴨の「とげ抜き地蔵商店街」である。年間約40回も開かれる縁日には、毎回25万人の人が押し寄せる。そこでは、すべての店主は店に住んでいるので、生活の臭いが街に溢れている。看板規制や自動車の乗り入れ規制が守られ、景観が統一され、お客は安全に歩ける。そこのお寺では、地蔵や護摩祈祷だけではなく、カウンセラー、坊さん、弁護士が、それぞれ分担して、参詣者の悩み事の相談に乗って現世的な御利益を授け、街の生活に溶け込んでいる。

今後の地方都市には、郊外に続々と大型商業施設が建設されるから、都市は郊外に拡散し、一段とアメリカ型になるだろう。それとともに、自動車を使えない高年齢者は生活し難くなり、また高齢者が郊外に点在するので、介護コストが上昇する。これを防ぐために、高齢者社会では逆に人口を中心部に集中させ、お互いに助け合い、かつボランティアが活躍し易いようにすべきだ。

そのためにも、中心市街地の再生が必要である。最近、中心市街地の路地には、流行を創造するベンチャー型の店舗が現れ、若い店主は夜遅くまで店を開いている。彼等がそこで生活すれば、30年前の東京の青山がそうであったように、街が徐々に蘇り、人が集まり、新繁華街になるだろう。

自治体は高齢社会における都市のあるべき姿を展望して、ベンチャー型店主を育成するとともに、郊外の大型店舗の規制を考えるべき段階に入ったように思われる。

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