静岡新聞論壇

3月6日

中国思想と夫婦別姓

同姓制度、東アジアで例外

明治の始めまで庶民には姓がなく、男性は「清水の次郎長」のように名の上に地名を付け、女性は「お蝶」と名だけで呼ばれていた。明治政府は明治8年に姓を義務づけ、当時、儒教の影響が大きかったから、中国と同じ夫婦別姓にした。

儒教は大家族制を基礎とした倫理体系を国家論まで拡大した壮大な思想体系である。その理論によると、大家族は祖先から子孫まで結合した有機的な大組織である。個人はその組織の一部であるから、永遠の命が与えられているという。祖先を尊び、両親に孝を尽し、子供を沢山産み、育てることが、人間の基本的な勤めである。

姓は過去・将来をつなぐ大家族に属する証しであって、命そのものと云える。大家族の基礎は血縁にある。夫婦は血縁がないから同じ大家族ではなく、それぞれの出身の大家族に属している。夫婦は別姓のままである。

子供は、どちらかの親の姓を名乗る。結婚を通じて、子孫と親戚の大家族が増え、同族が繁栄する。中国の同族は海外にまで膨張し、華僑として地球規模で活動している。

日本では、明治32年から夫婦同姓の制度に変わった。中国が日清戦争に敗れ、衰退したのに対して、欧米諸国が目覚ましい発展を遂げているから、今度は欧米の制度を真似たのだ。欧米はキリスト教徒が多い。結婚は男女がそれぞれ神と契約して成立する。新家族は当然、祖先と無関係であって、夫婦と子供だけで形成されているから同姓だ(多くの場合男性の姓)。東アジアの中では、日本は同姓制度を導入した例外的な国である。

儒教の影響が強い韓国の人から見ると、日本には倫理的に許せない習俗が沢山ある。その代表的な例は、女性が結婚すると姓を変え、男性でも変える人がいることだ。「祖先や子孫に対して、済まないと思わないのか。人倫に悖る行為だ」と言う。「いとこ」どうしの結婚は近親相姦だと非難する。

日本のインテリ女性は昔から儒教が嫌いだ。姑が横暴な夫の肩を持ち、妻が家庭の犠牲になっているのは、儒教の風習だと言う。幸いにも、最近、夫婦はかなり平等になった。

ところが、家電の機能が向上し、また「中食」の味が良くなったので、家族が家事を分担する場面が減った。多くの女性はフルタイムで働き、子供は夜遅くまで塾通いである。人口移動が激しいので、近所付き合いが薄くなり、家庭と地域との関係がほぼ消滅した。そうした結果、家庭生活が空洞化している。

出身家族との繋がりを重視

かっては夫婦とも仕事に生き甲斐を求め満足した。しかし、日本経済は長期低迷に苦しみ、勤め先の企業は苦境に喘ぎ、何時解雇されるか判らない。地域では頼る先がない。そこはかとない不安が増している。男性、女性ともに、安心できる暖かい場所が欲しい。

40歳代までは元気な父母が暖かく迎えてくれる。両親と同居している中年独身者が増え、既婚女性は父母や旧姓が恋しくなった。政府は彼女達の気持ちを汲み、出身家族との精神的繋がりを保てるように、別姓を認める民法改正を準備している。改正されれば、日本はキリスト教的な同姓と、儒教的な別姓という正反対の性格を持つ制度が、併存する奇妙な国になる。如何なる文化も無原則に受け入れる日本らしい現象だ。

革新派女性は別姓を、保守派男性は同姓を主張している。個人主義思想を正しいと確信しているインテリ女性達が別姓制度とその背後にある中国の大家族思想に暖かさを感じ、同姓制度とその背後にある欧米の個人主義思想に冷たさを感じているのは、実に不思議である。それは中国思想が日本人の深層に一段と食い込んでいる証拠と云える。そういえば「平成」も中国古典の言葉である。

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