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7月7日
宮沢さんの実力阻んだ官僚
超一級のエコノミスト
宮沢さんは近代思想の手本のような人だった。政府の役割は、どの人も心配なしに治療が受けられ、かつ贅沢できなくても、幸せな生活が送れる基盤作りにある。その上で、国民一人一人が努力して自分好みの幸せを築いていくものであって、政府はその幸せの内容に決して介入してはならない。
また、宮沢さんは、エコノミストとして超一級の実力者だったが、配下の堅い官僚組織がそれを吸収する能力を欠き、宮沢さんに組織の反対を押し切る気力が欠けていたので、実力の数分の一の実績しか残せなかった。
八六年に、大蔵大臣になった時には、日本経済は円高に苦しんでいた。宮沢さんは大型補正予算を組んで内需を拡大すべきだと判断し、指示を与えたが、大蔵官僚は財政再建の方針が既に決まっているので、方針転換はできないと強く反対した。その結果、財政による内需拡大が遅れ、それに代わって金融の大緩和政策が実施され、バブル経済を誘発してしまった。
九一年に宮沢さんが首相に就任した頃、バブル経済が終わったかどうか判断が難しかった。 大蔵省は景気対策支出要求が多くなるので、不況を予測することを嫌い、経済企画庁に圧力をかけ、首相に対する報告を楽観論にするように強要した。宮沢さんはこの報告を聞き「ほんとですか」と問い返した。この尋ね方が効果があった。それ以後、政府部内では楽観論が力を失った。
宮沢予想のように景気が下降し、翌年八月頃になると、株価が一段と下がった。宮沢さんは金融危機の発生を直感し、避暑先の軽井沢から帰京して、「株価が1万4〇〇〇円を割ったら、東京証券取引所を一日だけ閉鎖して、国民に危機を知らせ、銀行に公的資金を投入する」という方針を示したが、大蔵省は、次官以下首脳部が猛反対だった。それは、大蔵省の銀行行政の失敗を認めることになるからだ。
宮沢さんは、1〇数日後に開かれた自民党軽井沢セミナーでも、公的資金の投入に触れたが、財界や銀行界は挙って反対だった。銀行は信用失墜と政府の介入を恐れたからだ。もし、この時、宮沢さんの指示通りに公的資金が投入されていれば、日本経済はその後の長期不況を回避し、数百兆円の損失を免れたはずだ。
弱体化した日本の経済
宮沢さんは、金融危機が本格的になってきた九八年に、請われて大蔵大臣に就任したが、その時には、すでに無駄なハコモノが増え、少子高齢化が進み、多くの工場は中国などに移転して、日本経済はすっかり弱くなっていた。もはや、財政をどれほど拡大しても、日本経済は老人の体のように、びくともしなかった。宮沢経済学は通用しなかった。
宮沢さんの実力を阻んだのは、官僚組織だった。宮沢さんが寂しく大蔵大臣を辞めた頃、官僚叩きが一層激しくなり、官僚を重要な経済政策の決定から排除した小泉政権が、国民的人気を集めた。
私は、宮沢さんに何回か景気動向を報告したが、「流通在庫はどうですか」というような専門的な質問が返ってくるので、総理よりノーベル賞に相応しい人だと感じた。宮沢さんは、英語、フランス語、漢学、書が一流であり、西洋文化を体得している。学者のように積極的に活動せず、控えめであり、頼まれれば引き受けるのである。
同じ長老の中曽根さんは俳句と絵画が一流の腕前であり、深い歴史観を持ち、日本国民と言えば、古代から将来にわたる日本人全体のことだ。両人とも旧制高校的な広い教養が体に染みついた人だ。昔の教育には見習うべき点が多い。 (以上)