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文化の発信地へ静岡県の軌跡
(04/1)
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静岡総研「SRI」時々刻々 99号
誇り高い小国
世界には、貧しくても、誇り高く、侵略してきた大国の軍隊を打ち破り、独立を守った國がいくつかあり、アフガンとベトナムがその代表である。
イギリスは、19世紀に2回アフガンで戦い、いずれも惨敗した。イギリス軍は、カブールでテロ攻撃に苦しめられ、1843年にインドへ撤退する途中の山中で、アフガンの部族軍の待ち伏せに合って全滅した。イギリス軍人(インド兵も含む)4500名、非戦闘員1万2000名、多数の女子・子供が殺され、医師一人が助かっただけだという。
その30年後、イギリスは再びカブールを占領したが、間もなく、手なずけたはずのアフガンの部族が反乱を起こし、カブール郊外で部族軍とイギリス軍(約3000名)との野戦が始まった。19世紀を通じて、アジアにおける野戦では、イギリス軍が圧倒的な火力によって連戦連勝だったが、唯1の例外がこの時の敗戦である。イギリスは、それ以後最近までアフガンに大型部隊を派遣しなかった。
1979年に、最新兵器で武装されたソ連軍10万人が、アフガンに侵攻した。前年に成立したアフガン・人民政府が壊滅寸前の状態に追い込まれたからだ。ほとんどすべてのアフガン人はイスラム教を規制する共産主義政権と、その背後にいるソ連を嫌った。ソ連は戦死者一万5千、負傷者5万という犠牲を払い10年間戦ったが、遂に勝てなかった。
ソ連軍が局地戦に勝っても、数ヶ月後にはアフガン人は戦い前と同じ状態で生活しているという繰り返しだった。ソ連経済は破綻し、ゴルバチョフが撤退を決定した。アフガンは100万人が戦死したが、頑張り抜いた。
その直後の混乱期に、イスラム原理主義のタリバンが勢力を拡大した。アメリカを中心とした世界の主要国の軍隊が、2001年にオサマ・ビン・ラディンを追ってアフガンへ攻め込んだ。それから10年近く経っても制圧できない。アメリカは、最近、3万人の増派を決めたが、勝てる見込みがたたない。
ベトナムは強く、強大な中国の侵攻を防ぎ、9世紀から1000年間以上も独立を守った。明が永楽帝の時代の対外膨張期に一時ベトナムの大部分を占領したが、間もなく撃退された。
19世紀後半からフランスの植民地になり、1941年以降日本に占領された。その頃から独立を目指したゲリラ戦が始まった。ベトナム共産党軍は、日本の敗戦後戻ってきたフランス軍と7年間も戦い続け、54年にチェンベンフー要塞でフランスの主力部隊を殲滅した。
60年以降、今度はアメリカ軍とその同盟軍70万人と15年間も戦った。世界最強のアメリカ海兵隊の死傷率は8%に達し、アメリカにとって歴史的な敗戦だった。ベトナムは、さらに、79年に中国と戦い、負けなかった。
何故、アジアの小国が強いのか。興味深いテーマである。