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静岡総研「SRI」冒頭論文  2005年3月

芸術性と大衆性

芸術には、大衆の人気が集まらない。そもそも、芸術は時代の先端を歩むものであって、大衆がそれを受け入れた時には、さらに先を進んでいなければならないという宿命を背負っているから、大衆とは離れた存在である。

幾つかの例をあげてみよう。抽象的な絵画は、写真が開発された結果、生まれたと言われている。写真は19世紀前半に開発され、間もなく、世界に広がった。その頃活躍したボードレールは、大衆が手軽に写真を手に入れるのを嫌い、写真は人間から空想力を奪うものだと激しく非難した。画家は、写真に追われるように、写実的な作品を止め、抽象的な画を画くようになり、19世紀後半には印象派の全盛時代に入った。印象派が大衆にも支持されると、画家達はキュービズムやシュールリアリズムの突飛な抽象画を開発して、20世紀に入ると間もなく、大衆の感覚が届かない領域に突き進み、現在でも遠く離れた存在になっている。

文学でもそうであって、例えば、芥川賞受賞作品を読むには相当の努力が必要だ。昨年受賞の「蛇とピアス」や今年受賞の「グランドフィナーレ」は、舌を二つに裂いたりする自虐性やロリコンの病状をくどくど画いた小説であって、確かに、時代の先端を捉えたテーマになっているが、とにかく内容が重いので読み終わると、ぐったり草臥れる。

純文学の作家は、読者のことを少しも意識せずに、専ら自分の問題のために書いているので、読者が少ないのは当然である。文学でも絵画でも、芸術家達は無知な大衆に支持されるのを嫌っているようにすら思われる。これに対して、直木賞や江戸川乱歩賞の作品はいずれも面白いので時間を忘れて読み通してしまう。大衆小説家は、読者を意識し、喜ばすために書いているので、厚い読者層が支持するのは当然である。

ところで、日本各地に、公営の美術館や劇場が作られ、芸術を愛好する職員が、素晴らしい芸術作品を展示したり、或いは上演したりしているが、それらが「芸術的」であればあるほど、お客が少なくなり赤字が大きくなりがちだ。芸術性と住民の関心との折り合いを付けたり、館内のショップの売上高を増やすように努力することが、重要な課題になっている。最近開館した金沢市の21世紀美術館は、芸術性と大衆性と巧くミックスして、来館客増やすことに成功した。

この美術館には、底にいる人が見えるプール、鏡の自動ドアーで繋がっている沢山の鏡の間、天井から多様な枝が蔓下がっている部屋、円い形のピンポン台など、現代アート風の空間に子供が喜びそうな仕掛けがしてあるので、特に小学生の入場者が多い。この美術館については、激しく批判する人と高く評価する人が相半ばし、意見なしの人はいないそうだ。それは、この美術館がまるで大衆小説のように、芸術性より話題性や大衆性を重くみているからだ。金沢には伝統芸術・芸能の厚い蓄積があるからこそ、こういう遊びながらやって来られる軽い感じの美術館を、市の中心部につくることができたように思われる。

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