その他の連載・論文

静岡総研「SRI」冒頭論文  2003年10月

道から道路へー共同体の衰亡

イタリアのアッシジやドイツのローテンブルグのように、ヨーロッパで中世から続いている中小都市は、現在でも、城壁に囲まれ、町の入り口には門がある。門を入ると細い石畳の道がぐねぐねと続き、やがて、少し、開けた広場に突き当たり、そこには教会がある。そこから、四方にまたぐねぐねした道が伸びている。

その道の両側には、石造りの中層の家が隙間なく続き、それらは道から連続して建てられている。つまり、道と家の入り口の間には隙間がない。そこの住人にとってみると、城壁が住宅の塀であり、門が玄関、道は廊下に当たるのだろう。家は廊下に面した個室といえよう。教会があるはお稲荷さん祀ってあるある庭だ。 また、道の脇にある小さな広場が居間であり、住民はそこのベンチで長々と話し合っている。

ヨーロッパの古い都市は、先ず城壁が造られ、その中に、封建領主か、あるいは自由都市の武力に守られた市民が住居を構えた。彼等は敵が攻めてきた時には、共同して戦う絆が強い仲間同士だ。市民にとって、都市の中は安全であり、家族のような仲間がいる場所だ。そこでは、統一ある美しい景観が守られ、それは年を重ねるにつれて荘重さを加えている。

フェラーラ、ラベンナ、ベルン、ブルージュを始めとして、ヨーロッパには美しい中小都市が多いのは、そういう連帯感が強い市民が存在するからだ。フライブルグ、ストラウスブルグ、マンチェスターなどでは、市の中央には自動車の乗り入れが禁止され、騒音や強い振動がなく、乗車口が道路と同じ平面にある新型の電車が交通の中心になっている。新型電車は街を貫く「動く歩道」の一種といえよう。街の道は自動車が通る「道路」ではなく、住民の「廊下」であるべきだ。

徳川時代のおける江戸、京都の商人町では、道路を挟んだ両側の店が一体として考えられて、いろいろな規則ができている。それは、道が道路ではなく、生活の場であったからだ。江戸では、町の入り口に木戸番がいて、出入りを監視し、夜には門を閉じた。閉じられた都市や町の中では、常に誰かの目があるから、事故、犯罪などの情報がすぐ伝わり、安全性が高まった。都市や街の規則を破った人もすぐ判るから、景観や清潔さが守られる。

日本の都市は、そもそも、城壁や門がなく、止めどもなく、郊外に広がっていた。私たちは、2次大戦後、共同体の規則で縛られるのは封建的であり、基本的人権侵害だと教えられ、誰にも束縛されない個人の生活こそ重要だと信じた。そこで、すべてのドライバーはどんな道でも、自動車を自由に乗り入れる権利を与えられているはずだと考えた。その結果、「道」は危険であり、かつ排気ガスが充満している健康に悪い「道路」に変わった。私たちは、「道」に親しむことを止め、高い塀を巡らし、その中に小さな庭を造り、満足している。そうして、内は大切であるが、外はどうでもいいと思うようになった。塀の中だけを花で飾り、外は殺風景な色の塀であり、車庫には無趣味なシャッターがおろされている。派手な色をした看板やネオン、それぞれバラバラな形や色をした住宅や塀、ゴミ収集所の周りに乱雑に置かれたガラクタなど、どれほど醜くても、私たちは気にしなくなった。

共同体意識が消えるとともに、犯罪率が増え、検挙率が激減した。、日本は高賃金国になったにも拘わらず、中小都市の景観は他のどの高賃金国と較べても、ひどく劣っている。海外から、観光客も文化人・学者などもあまり来ないのは当然だ。今後、地域間競争が景観を巡る競争に転化すれば、幾らか変わるかもしれない。

ページのトップへ