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8月14日
静岡県の8月15日
思想・哲学の時代へ
1945年の8月15日は暑い日だった。昼の玉音放送ははっきり聞き取れず、本土決戦に備えろという放送だと勘違いした人がいたので、すべての国民が敗戦という事実を知ったのは、夜になってからだ。
その頃、静岡県下の主要都市は、米軍の焼夷弾攻撃によって焼け野原になっていた。旧静岡市のような平地都市では、米機は周りに焼夷弾を投下して市民の逃げ道を塞いだ後に、中心部に焼夷弾を集中した。人口16万人の旧静岡市における死者は2千人に達した。
浜松市と旧清水市は艦砲射撃を受け、直撃を受けた家では、家族の腕、足、頭がバラバラになり、土間から座敷まで散るという状態だった。ガザの市民はイスラエルによる非人道的攻撃に苦しんでいると言われるが、死者は約1カ月間で、人口170万人のうち、1800人だった。
戦時中の旧制中学・高校生は若くして戦死することを覚悟していたので、敗戦とともに、これからは、ずっと生きられるという喜びが自然に湧いてきた。
占領軍が現れると、飢えに苦しんでいる私たちの目標がはっきりした。アメリカ兵の身体はがっしりした骨格と筋肉で覆われ、彼らが持っているチョコレートはこの世の物とは思われない美味さである。ジープの車体は頑丈であり、タイヤの溝が深く、久能山の階段を上るのである。私たちの目標は、アメリカの技術を吸収し、熱心に働き、アメリカのように優れた製品をつくることであった。
この目標を達成するには、共産主義、自由主義、社会民主主義など、しっかり思想で武装することが必要だった。敗戦の翌年に復刊された「中央公論」「改造」のほかにも、「世界」「展望」等本格的な総合雑誌が発行され、左翼、右翼の論客がそれぞれ論陣を張った。西田幾多郎の「善の研究」の発売予定日には、静岡市の吉見書店に早朝から長い行列ができた。どの都市でも、思想や文学の研究グループが生まれ、三島の庶民大学では、45年の暮れに、当時、日本政治思想の最高の権威と云われた丸山真男が講演をした。静岡県も思想・哲学の時代になった。
反米薄れた70年代後半
50年に朝鮮戦争が始まった。福岡の板付空港から、共産軍を攻撃するアメリカの飛行機が飛び立ち、それ以来、日本列島は米軍の前線基地になった。アメリカと親密になると戦争に巻き込まれると考える文化人の層が厚くなり、静岡大学文理学部はマルクス主義学者の牙城だった。
60年の日米安保の改定では、日本が永久にアメリカの基地になると反対するデモが、連日国会を取り巻き、生命の安全が保証されないという理由で、アイゼンハワー大統領の訪日が中止になった。
多くの日本人は、アメリカの軍事基地が日本各地に存在したので、反米的だった。それが消えたのは基地が沖縄に集中され、また日本がアメリカとともに、自由世界を守るリーダー的存在になった70年代の後半からである。
現在、日米の軍事的関係が強まりつつあり、六〇数年前と同じように、思想研究の文化県になりたいものだ。