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3月19日
サービス業の成長と文化サロン
東京の教授 郊外に分散
3人集まれば文殊の知恵という。大勢の人が絶えず集い、話し合えば新しいアイディアが生まれるものだ。1970年ごろまで、東京の銀座には、小説家・評論家・出版社が集まるバーがあり、そこで新鮮な文学論が展開された。
大正時代の後期には、日本を代表する一流作家・詩人の大半が田端に住み、関東大震災後の昭和初期には、大田区の馬込に移り、そこで文壇が形成され、作品批評や文芸評論が展開されたという。
東京は、日本経済の成長とともに発展し、地価が上昇したので、作家は遠い郊外にバラバラに住み、文壇バーが消え、文壇の影が薄くなり、大作家や大詩人がすっかり減った。
ノーベル賞の受賞者が京都大学、名古屋大学教授に多いのは一流学者が指呼の間に住み、情報を交換し、また生きた議論ができるからだ。これに対して、東京の大学には教授数は多いが、遠い郊外にバラバラに住み、通勤だけですっかり草臥れ、ノーベル賞に値する研究が生まれにくいという。あながち的外れな説ではない。
大平正芳内閣(78年発足)のころ、自然科学者や社会科学者が大量に集められて、15人ぐらいのメンバーから成る九つの部会に分かれて研究し、「田園都市構想」をまとめた。当時の厳しい討論を懐かしみ、現在でも老いた研究者は、毎年、細々と開催される蝸牛(大平さんのあだ名)会に参加している。
同じころ、通商産業省(当時)が競輪の収益を利用し、10の研究会から成る大型組織を創った。それぞれの研究会に毎年テーマが与えられて毎月集まり、半年ごとに合宿して研究成果を整理し、春に箱根や伊豆で総会が開かれた。そこでは、2日間、絶え間なく、討論が続いた。この研究会は3年間続き、累計約300人の一流学者が参加した。
多分野の学者が寝食を共にして、遠慮のいらない関係が形成された。80年代に、歴史、宗教、政治、経済を統合した間口が広い書籍が続々と生まれたのは、その成果ともいえる。「イエ」を日本の基本的な社会構造と捉え、日本的経営は「イエ」の延長線上にあって、強い産業や平等な社会が築かれたという思想はそのころ生まれた。
生きた議論の場 静岡に
経済学者や評論家のたまり場がお茶の水や新宿に幾つかあり、なじみの学者、評論家、経営者が議論したものだ。デフレ経済に入ると、たまり場が消え、学者は狭い分野を深く掘り下げ、海外の学者との交流が増え、国内の異分野の学者との付き合いが減ったようだ。
静岡県は経済も人口も衰退している。大学、文化、観光などサービス分野の競争力が弱く、新幹線というストローによって、それらは東京圏に吸われている。県内には、優れた文化人が多い。膨大な数の学者を利用した大平内閣時代のように、文化人が定期的に集い、広い観点から静岡県の将来を考える「サロン」の形成が期待される。幸い、静岡も浜松も中都市であるから、サロンが多くなれば、そのまま、かつての田端や馬込のような文化村になれる。しかし、静岡市民の引っ込み思案体質は、サロンの障害である。