アジア動向

静岡新聞論壇 6月25日掲載文

日韓国交回復直後の20年間

重要産業国産化に成功

50年前(1965年)の今月22日に日韓基本条約が締結された。朴正熙政権は、この基本条約によって日本から獲得した経済援助資金8億ドルを利用し、また外国技術を導入して、見事に、鉄鋼、電機、機械等の重要産業の国産化に成功した。

朴正熙政権は17年間も続き、国民の独裁政権批判が次第に強まって、優れた頭脳はアメリカに逃れ、70年代には、戒厳令下にもかかわらず、大統領夫人も本人も暗殺された。

韓国経済は、政治的、政策的にも行き詰まっていた。その頃、私が勤めていた長銀(日本長期信用銀行)調査部は日韓経済の産業連関分析を行い、78年にソウルでその結果を発表し、「中小企業の育成と貯蓄の増強」を強調した。小型ホールは満席になり、熱っぽい討論が続いた。

それ以後、政権が変わっても、日本がいかにして、中小企業の発展と貯蓄の増強に成功したか説明してくれという韓国・政府機関や財界団体から依頼が増えた。私は、猪木武徳、小池和男、故飯田経夫、飽戸弘の各氏など、そうそうたる学者にソウルでの講演をお願いした。いずれも、通訳なしだったが、満席の会場には、日本経済を知りたいという知的熱気が溢れた。

全斗煥政権の大統領補佐官に、金在益と許文道の両氏が就任した。金氏はスタンフォード大学出身のインテリだった。彼は日本の技術を効率的に吸収するためには、韓国人が日本を尊敬し、かつ深い友情を感ずるという前提が満たされる必要があると考えた。独仏和解の始まりは「官僚の相互出向から始まった」という歴史に倣い、日韓両国も官僚の交流を深めたいと、その仲介を私に依頼してきた。私は通産省などにこのことを伝えたが、人の余裕がないと軽く一蹴され、やむなく、長銀調査部が82年から韓国商工部とエネルギー庁から課長クラスの人を累計4名受け入れ、人脈づくりの活動の場を提供したが、困ったことに、韓国の商工部に出向する人が見つからなかった。長銀でもアメリカやヨーロッパが重要であり、人材を韓国に割けないという。韓国語を習う希望者もいない。結局、日韓交流は一方通行に終わり、金氏の期待は消えた。彼は全斗煥大統領を狙ったラングーン爆破テロ事件の犠牲になったので、私は謝る機会を失った。

交流要請に応えられず

許文道氏は東京大学出身であり、日本を深く理解させるために、日本語を使ったテレビ番組を許可したいと考えていた。しかし、それは韓国人の反政府運動の発火点になるかもしれないから、私に対してテストとしてKBSに出演し、「刺激的な言葉なし」で日本経済を話してくれと言う。2回目は静岡経済研究所の故山崎充氏が日本の中小企業を話した。残念ながら、日本には、軍事独裁国家の韓国でテレビ出演するのを嫌う学者が多く、出演者不足のため、この良い番組は間もなく中止になった。

当時、韓国が先進国になると予想しなかったので、日本は85年ごろまで、先方の要請に冷たかった。韓国にとって、日本と対等の立場にあることが極めて重要であるが、それを傷つけ、恨の層を厚くしたように思える。

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