アジア動向

3月

幕末維新の日中学生交流 (アジア学術フォーラムの報告)

1. 幕末・維新の留学や使節団

留学の目的は時代と共に変わる。発展途上国では優れた人材を選び、官費で先進工業国に留学させる。目的は近代的な社会・政治・経済システムや近代技術を学ぶことだ。日本はペルーの来航によって混乱し、「夜も眠れぬ」状態になり、思想家は西欧文明を探求したいという衝動に駆られた。吉田松陰は日米通商条約が結ばれた1854年に下田で密航に失敗し、結局死刑に処された。

徳川幕府や薩摩・長州藩は鎖国体制にも拘わらず留学生や使節団を送り、また密航者が現れ、200名を越える人が欧米に渡った。

例えば、榎本武揚は1962年に幕府からオランダのライデン大学への留学を命ぜられ、5年間、国際海洋法、冶金、化学、機械等を研究した。帰国後、軍艦奉行になり、明治維新後は、ロシア大使、外務、逓信、農務、文部等の大臣を務めた。西周は、榎本とともに幕府の命令でライデン大学に留学し、国際法や経済学を学び、帰国後は西洋哲学を広めた。
安中藩士の新村襄は、造船技術を学ばなければ日本が危ないと、矢も楯もたまらずに、1964年に、函館から上海経由で、船長付きのウエーターになって、アメリカにに密航した。1年4ヶ月の孤独な船中生活は、彼のキリスト教への傾斜を強めた。上陸したボストンで神学校に通いキリスト教の信仰を深め、帰国後開設した小型な塾が後に同志社大学に発展した。

長州藩と薩摩藩は、1864年、それぞれ5名、13名の藩士を秘かにロンドンに留学させ、国際的視野を広げて倒幕力を強めようとした。長州藩の留学生には、伊藤博文と井上馨がいた。彼等はイギリスを中心とした4カ国が下関を攻撃するという情報を掴み、攘夷は説得のため、途中で帰国した。留学生は、維新後、外交、教育、経済界等で活躍した。
福沢諭吉は、1960年から64年の間に、3回、延べ約300日間、幕府の使節団の一員として、西洋文明の調査に過ごし、日本きっての西欧通になった。「学問の勧め」や「文明之概略」は、現在でも読まれている。

岩倉使節団は、大久保利通、木戸孝允等の幹部や若手エリート40名から成り、明治4年から約2年間で欧米14カ国を訪問して、明治政府のジョンを固めた。中江兆民、津田梅子、団琢磨は使節団に加わってそのまま留学し、帰国後、思想、教育、経営の分野のリーダーになった。

高橋是清は、昭和初期の大恐慌の時、金本位制を離脱し、大量の赤字国債を発行して財政支出を拡大し、景気回復に成功した大蔵大臣である。彼は仙台藩の足軽の子に生まれ、14才の時抜擢されてアメリカに留学し、騙されて奴隷に売られたりして、資本主義経済を体験し16才で帰国した。彼の直感力ははこの時養われたという。

幕末から明治維新にかけての日本は欧米留学希望者が溢れ、その望みが叶った人は、まるで乾ききった乾期の土が雨期が到来した最初の雨を吸収するように西洋文明を吸収した。岩倉使節団は、休日なしに、政府機関、工場、病院、学校、美術館、博物館等を訪問し、熱心に的確な質問を浴びせた。訪問国の政府は、使節団の礼儀正しさと好奇心の激しさに驚いた。使節団の調査日記は、実に細かく記されている。

使節団の勧告にしたがって、明治政府は外国人を招聘して、西洋文明を吸収することを決めた。東京帝国大学ではお抱え外人が英語やドイツ語で講義をし、英語やドイツ語の教科書が使われた。大部分の東大卒業生は不自由なく原書を読めた。森鴎外は東大の医学部でドイツ語の講義を受け、留学したドイツでは、医学だけではなく、文学を吸収し、即興詩人、舞姫等の翻訳文学を確立した。
明治政府は、技術でも素晴らしい吸収力を示した。

2. 日本を研究しない中国人留学生

日本と中国は留学生交流が親密だった。遣唐使は日本の政治や文化に大きな影響を与えた。最澄や空海等の留学僧が仏教の基礎を築いた。明治時代になると、間もなく、中国から大量な留学生が殺到した。
清(中国)政府は日清戦争に敗れると、直ちに、日本への公式留学制度を創り、留学生が次第に増えた。日本が日ロ戦争の勝利とともに、世界から先進国として評価され、突然のように、清の留学生が激増し、勝利の翌年の1907年頃には、在日留学生は2000人近くに達した(留学したいと来日していた若者を含めると、1万人を越していた)。

その後、一次大戦が勃発して、留学生数は減ったが、間もなく、増加に転じ、1914年には4000人近くなり、そのうち約70%は私費留学であり、大部分は法文系の学部で学んだ。

この時期、官費留学生はアメリカに約500名、ヨーロッパに約200名送られた。アメリカ政府は、義和団運動の被害の賠償金として、清政府から支払われた資金の1部をアメリカへの留学事業基金として寄付したので、留学生が急増したが、日本への官費留学生約1100名には遙かに及ばなかった。日本は最大の中国人留学生の受け入れ国だった。

最近、中国社会科学院・日本研究所で、この時期の日本留学についての研究が行われたが、実に不思議なことに、留学生は日本の文化・伝統や法体系に関する報告が全くないことだ。法文系の留学生のレポートは、欧米の思想、制度、法律、経済に関してであって、そこには、和製の専門用語がふんだんに使われていたという。その理由には、次の諸点が挙げられよう。

1. 日本は西洋文明を輸入し、英語の法律・経済・哲学等の用語を悉く漢字に翻訳した。民主主義、人民、共和国、経済、資本、資産等、例は上げれば切りがない程多い。日本に留学すれば、西洋の専門用語を漢字に転換しているので、手っ取り早く理解できた。

2. 欧米留学では、旅費や生活費が高いが、日本は距離が近い上に、賃金水準が低いので、物価が安く、生活が楽である。
3. 日本語が難しいので、日本文化を理解するには、留学期間が短か過ぎる。また中国人にとっては、日本は、道徳、諺、絵画、庭園、寺院等、文化を全て中国から輸入しているから、文明的にはむしろ劣っている。日本文化には学ぶべきところがない。

4. 中国は列強によって、植民地化されている。それを阻止するためには、中国の政治制度を一刻も早く、欧米化しなければならない。日本で、日本文化をのんびり研究している心理的、時間的余裕がなかった。

3. 魯迅、郭沫若、周恩来

1900年から20年にかけての留学生には、魯迅、郭沫若、周恩来がいた。彼等は日本で西洋思想を熱心に学んだが、日本文化について研究した形跡がない。

魯迅は、日露戦争勃発のの前年・1903年、国費留学生として、仙台医学専門学校(仙台医専、後に東北大学医学部になる)で学び、中国で西洋医学を通じて、近代的・合理的思想を導入したいと考えたが、僅か1年半で挫折して、文学に志を変えて東京に移った。帰国後、処女作「狂人日記」を発表した。彼は、文学を通じて、中国の伝統的、封建的思想を欧米的思想に改造しようとした。「シナ」を軽蔑する人が多い日本には関心がなかった。

仙台医専の解剖学の教授は「藤野先生」であり、「藤野先生」は日本語能力が不足している魯迅に毎週ノートを提出させ細かく訂正し、妥協なしの教育を行った。そのノートは1800ページに達した。魯迅は師と仰ぐ人のなかでは、中国に西洋医学を移植する熱意に燃えた「藤野先生」が最も偉大だったという。彼が退学を告げた時の悲しげな「藤野先生」の顔が忘れられないと云う。小説「藤野先生」は解放後の中国でも、中学校の教科書に使われた。「藤野先生」の印象だけが彼と日本の接点だった。
郭沫若は、1914年に来日した官費留学生であり、難関の旧制高校(第6高等学校・6高)に入学した。当時旧制高校は東大、京大、東北大学、九州大学等の国立大学に100%進学できるエリートコースだった。彼は日本語を自由に使い、6高3年の時、日本人と結婚した。それから九州大学医学部に進んだ。

卒業後帰国して、上海で小説を書き、文芸運動を始め、また中国共産党に入党したので、国民党を追われ、1928年から10年間日本で亡命して 中日戦争が始まると、妻子5名を残して、夜間、秘かに中国に渡った。

郭沫若は、新中国では、全人代常務副委員長という文化人としては、最高のポストに就いた。毛沢東時代の中国では、日本留学や日本語に秀でているといった経歴や能力はマイナスの評価であり、政府高官の郭沫若が日本時代について話すわけがなかった。彼の小説は全て中国語であり、彼が日本から受けた目に見えた影響と言えば私小説風の作風だった。

周恩来は、1917年に来日して、翌年に、東京高等師範学校(後の東京教育大学)と第1高等学校(後の東大教養学部)を受験したが何れも失敗した。国立大学でなければ、官費留学にはなれないので、彼は明治大学政治経済科に私費入学した。

その頃の東京は中国の革命基地であり、革命家は日本の有力者と接近して、住居だけではなく、資金の援助を得ていた。東山満や内田良平等の在野・アジア・フィクサーや犬養毅等の大政治家が革命を援助した。日本の援助者は、欧米のアジア侵略に対決するために、中国、韓国、日本が一体になて、まず腐敗した清朝や李朝を打倒すべきだと考えた。それは、日韓合併や満州国建国思想に繋がった。

中国、韓国、インド、ベトナムの革命家には、アジア団結、一斉革命の考え方が強かった。革命の手本は明治維新であって、日本に拠点を置きたいと考えた。孫文は1895年に、広州で武力蜂起に失敗すると、東京に亡命して、頭山等の支援を受けた。孫文は宮崎滔天の支援をうけて、東京で中国革命同盟を結成し、メンバー3000人の90%以上は在日・留学生だった。

辛亥革命(1911年)が成功すると、孫文は大統領に就任した。広州蜂起でも、辛亥革命でも日本の同志が参加し、大統領就任式には、犬養首相や頭山等の志士が参加した。

一年後に、袁世凱が大統領に就任して、腐敗政権に戻った。孫文は13年から3年間日本に再び亡命して再起を狙い、次第に共産党の影響を受けるようになった。彼は中山と称したが、それは明治天皇の母が出た公家の中山家から取ったものだ。

東京に中国革命の気が漲っていた時、周恩来は来日し、神田に住み、読書、古本屋街散歩、留学生仲間との討論の生活を送った。

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