Fuji Business Review 2009年3月 第1号
グローバル経済の秩序崩壊と再建の方向
1. 巨大な不況の到来
アメリカにおける金融危機は急スピードで進み、多くの金融機関が瞬く間に経営危機に追い込まれた。危機の兆候が現れたのは、06年末であって幾つかの中堅住宅金融会社が破綻した。08年3月に大手投資銀行(証券会社)のベア・スターンズが救済合併され、9月には住宅金融公社の2社は事実上破綻して政府の管轄下におかれ、続いてリーマン・ブラザーズが倒産した。リーマン倒産同時に、金融業界では信用取引が成り立たなくなり、金融の動脈である短期金融市場は機能不全に落ち込み、同じ月のうちに、5大投資銀行の残り3行も合併されたり、銀行業に転化したりして姿を消した。
米連邦準備制度理事会(FRB)は、社債・株式担保の貸し出し、証券化商品やCPの購入、海外中央銀行とのスワップ、貸付債権の買い上げ等あらゆる手段を総動員して資金を供給し続け、また実質的にゼロ政策金利政策を実施した。FRBの総資産額は9月から11月の間9000億ドルから2兆1000億ドルに激増し、年末には3兆ドルに達したと言われる。この緊急措置によって金融機関は資金繰り破綻を免れた。
10月初め、改定金融安定化法が成立し、公的資金投入枠7000億ドルのうち、2500億ドルが大手銀行の自己資本充実に当てて、貸し渋りや貸し剥がしを止まるはずだった。しかし、実際には住宅ローンやオートローンが急スピードで圧縮され、実体経済は一挙に悪化した。11月には、住宅の建築戸数や自動車販売台数は前年比同月比で約40%も減少し、小売り業も極めて不振だ。自動車のビッグスリーは倒産寸前の状態になった。
金融危機は08年からヨーロッパに広がっており、リーマン破綻によってそのスピードが一段と加速した。世界経済は大型不況に落ち込み、日本、中国、東南アジア、ロシアなど殆どすべての国で、9月以降、経済成長率が大幅に低下したり、マイナス成長になったりして、失業が増大している。
1980年代から、世界の成長を支えてきたアメリカ経済が限界に突き当たったことが判った。
2. 貿易赤字の覇権国
アメリカ経済は80年代から貿易収支が赤字、資本収支が黒字という体質に変わった。普通、経済覇権国は貿易収支が黒字、資本収支が赤字である。覇権国の産業は技術進歩が早いので輸出が伸びる。それによって獲得された資金は海外諸国に投資され、それらの国では経済が成長し、内需が拡大する。その結果、覇権国の輸出はさらに伸び、貿易収の黒字が拡大するという循環を辿るものだ。
しかし、アメリカ経済は全く逆の循環によって発展した。まずアメリカの輸入が拡大し、つぎに海外諸国が対米輸出を伸ばして成長し、獲得したドル資金をアメリカに投資した。その結果、アメリカの経済が成長して、内需が拡大し、輸入が増えるのだ。
何故そうなったか。簡単にふり返ってみよう。80年頃のアメリカ経済はスタグフレイションに苦しんでいた。その原因は70年代における石油価格の急上昇(所得の産油国移転)と強力な労働組合の賃上げにあった。レーガン政権は81年に金融を引き締め、同時に所得税と法人税を大幅に引き下げ、設備投資の拡大と勤労意欲の増大を狙った。また金融業や航空業等の自由化を進め、市場原理が働く仕組みをつくった。小さな政府にすれば生産性が向上し、税収が増えやがて財政が均衡するという理屈だった。
このレーガノミックス政策によって、インフレが収まり消費が増加し、経済が成長した。しかし、金融引締めと国債発行額の激増とともに金利が上昇した。しかし80年代中頃になると、ドル資金が産油国を始め対米輸出超過の国から、経済が堅調になったアメリカに流入して金利の上昇が止まった。しかし、しばらくの間ドル高が続いた。貿易収支の赤字と資本収支黒字がともに拡大した。
3. アメリカの対日政策
80年頃、日本では労働組合が賃上げを抑え、また企業は省エネ投資と省エネ製品の生産に全力を投入した。インフレが収まり、経済が回復し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた。しかし、日本は成熟経済に変わっており、成長するためには財政の増加と輸出の拡大が必要だった。その頃、日本の機械製品の国際競争力が強くなり、自動車や半導体はアメリカ市場を席巻した。
アメリカの対日貿易赤字は拡大し続け、日米経済摩擦は激しくなった。アメリカの要求は自動車や半導体の輸出自主規制から金融市場開放に移った。それが実現すれば、アメリカの金融機関は日本市場で強力な基盤をつくり、利益をあげられる。また円資産投資が増えるから、円高になるというわけだ。
日本政府は84年にアメリカの要請に応じて、為替取引の実需原則の廃止、円転規制の廃止、ユーロ円市場の規制緩和等の政策を次々に実施した。これによって内外金融市場は直結した。大企業はユーロ円市場で転換社債やワラント債を発行して、日本の金融システムはアメリカ的になった。
アメリカの要求によって、85年の先進国5カ国蔵相中央銀行総裁会議(プラザ会議)が開かれ、一斉に為替介入することを決まり、円レートは瞬く間に上昇し1年後には40%近い円高になった。それでも、Jカーブ効果が働いたためアメリカの対日貿易赤字は減らなかった。貿易赤字を縮小させるにはアメリカの消費過剰の体質を直すことが必要だったのだ。
しかしアメリカ政府はその政策を絶対に避けたかった。それはデフレが発生して失業が増えるからだ。そこで日本政府に対して内需拡大政策を強く要求した。驚くことに日本政府はこの要求を受け入れ「前川レポート」を作成し、内需拡大を約束した。敗戦国だったので、泣き寝入りしたわけだ。
4. BIS規制と失われた10年
日本政府は国債の累増に苦しんでいたので、日本銀行は超低金利政策を持続して内需を刺激しようとした。ところが、大企業は海外市場で低金利資金を調達し、銀行に借入金を返済している状況だった。銀行は優良な融資先を失ったので、過剰資金を不動産・建設・ノンバンクの3業種への融資を向け、バブル経済を引き起こした。不動産企業は、
からの円高を利用し、銀行から低利資金を借り、ニューヨークのロックフェラー・センター・ビルや世界のリゾートを次々に買収した。
欧米の中央銀行は、日本の銀行の行動を問題にした。大蔵省が銀行間で競争が激化しないよう指導し、銀行を保護している。つまり日本と欧米の銀行とは競争条件が異なっている。また、日本では銀行が自己資本に較べて過大な投融資を行っているから、銀行が経営危機に落ち込んだ時には、世界の金融危機を誘発する可能性がある。規制が必要だと言うわけだ。日本の銀行は89年からBISの自己資本規制に従ったが、その適応を間違え、日本経済はバブル崩壊後、大打撃を受けた。まず、自己資本に手持ちの株式(時価の45%)を組み込んでいたので、株価が暴落するや否や、銀行は忽ち自己資本不足に陥った。つぎに銀行と大蔵省はともに、銀行系列・ノンバンクに対する債権を優良債権だと判断した。バブル経済が崩壊した時、銀行は系列ノンバンクを利用して不良債権を健全債権に粉飾し、本来倒産すべき企業を延命させた。そのため不良債権が累増した。
大銀行はBIS規制による自己資本比率8%を守るため、96年頃から「大規模な貸し渋り・貸し剥がし」を実施した。その結果景気が下降して不良債権が一段と膨張し、97年から98年にかけて大銀行や大証券会社が倒産した。経済成長率(実質)は、97年1%、98年マイナス1%になった。
欧米系の銀行、証券会社、ファンドは日本の金融危機を見逃さず、風評流布や株式の空売りといった手段を使って、幾つかの日本の銀行を破綻に追い込んだ。また国有化された銀行を日本政府から「瑕疵担保条項」までつけさせ、驚くべき安価で買収した。倒産したゴルフ場やホテルを買って相当な収益をあげた。
5. アメリカのIT革命
アメリカでは90年代始めから、IT投資が盛り上がり、最先端産業が経済成長をリードした。金融工学を駆使する金融業、世界から頭脳を集める大学産業、ITや再生医学、航空宇宙等の先端技術産業、映画・音楽・ミュージカル等のホップカルチャー産業、弁護士・会計士・IT専門家等の企業経営産業では、世界で圧倒的に強い競争力を備えた。
IT株が多いナスダックは、90年代で10倍になった。ニューエコノミー時代が来たと云われた。2000年代に入るとアメリカの上位1%の所得合計は、ヨーロッパの工業国の国民所得より多くなった。優れた頭脳がロシア、中国、インド等から続々とアメリカに集まっていた。中国やロシアでは自由化が進み、出国やアメリカ留学が容易になったからだ。彼等がハイテク技術の開発者になり、アメリカ経済を支えた。
アメリカの全産業でIT化が進み、またインドへのソフトの外注が増えた。それとともに、多くのホワイトカラーは仕事を失い、低賃金の仕事に移動した。しかし廉価な中国製の消費財が溢れ、生活水準を維持できたので、社会不安が起きなかった。90年代には、工業国の企業は低賃金と良質な労働力を求め、先を争うように中国に工場を移転し、そこを拠点としてアメリカに輸出した。例えばアメリカの大手スーパーは中国の数千社の下請け企業に対して、品目別の売り上げ推移に応じ、また新モデル製品を発注し、かつ米国内の数千の店舗における在庫量を適正に保つようなシステムをつくった。
そうした結果、アメリカに低廉な消費財が大量に供給され、IT景気の盛り上がりよる内需の拡大にも拘わらず、消費者物価が上昇しなかった。アメリカの対中貿易赤字は、日本とほぼ同額で80億ドルを越した。 中国は貿易収支の黒字によって獲得したドルの大部分をアメリカの国債などのドル債権の購入に当てた。中国経済が進出外資の輸出力に支えられて高成長していたので、中国政府は元レートの急上昇を恐れ、貿易収支の拡大に応じて外国証券の購入額を増やし、外貨準備金の65%以上をアメリカ国債等のドル証券に当てた。中国への証券投資を厳しく規制された。そのため、元安の状況が続き、対米輸出が伸び、ドル証券への投資が拡大した。
また、東南アジア諸国は、97年のアジア通貨危機に懲りて貿易収支を黒字にする政策に変わり、外貨準備金として、アメリカの国債を所有するようになった。
IT革命は、韓国、台湾、中国における半導体、パソコン、携帯電話等の輸出を刺激し、それらの国の対米貿易収支の黒字は、国債などの証券投資によって、アメリカに環流した。アメリカは、グローバリゼイションを巧く利用して偉大な経済強国に復活した。「失われた10年」に苦しむ日本経済を遙かに引き離した。
90年代の終わりのアメリカ経済は、海外からの豊富な資金の流入、低廉な消費財の輸入、労働需給の緩和等の要因によって、消費者物価、金利ともに低位安定し、株価は2000年まで上昇した。ニューエコノミー時代が来たと云われた。
6. 金融による経済成長
金融が自由化されると、銀行の証券業への進出意欲が高まる。大企業は銀行融資より金利が低いCP・社債や増資によって資金を調達する。また証券技術が進歩するとともに、貸付債権や不動産の証券化が広がった。
銀行が証券業を兼任すると、倒産しそうな融資先企業に社債を発行させて証券部門がそれを売りさばきその資金によって借入金を返済させるとか、或いは融資部門から有望企業が増資するという情報を得ると、証券部門が自ら直ぐ購入するといった顧客の利益に反した行動を取る可能性が大きい。そこで、銀行業と証券業には厳しい壁がつくられ、1933年以降兼業が禁止されてきた。
アメリカでは、銀行が証券業に金融の地位を奪われつつあった。銀行界はつぎのように主張した、銀行が証券進出すれば、金融業の競争が激化して、金融業の生産性が上昇する。利益相反や地位乱用に対しては、しっかりした対策を用意すれば問題がない。アメリカでは、99年に金融持株会社をつくり、その子会社になるという形で銀行と証券との相互参入が認められた。それが新しいグローバルスタンダードになった。
金融業に参入者が増加して、新しい資金需要とリスクを軽減した資金供給方法が開発され、専門的な知識を備えた多様な金融機関が発展した。
住宅金融会社は金利が低下した02年頃から急成長した。競争が激しいので、低所得層向けのローンも開発された。低所得層は住宅価格が永遠に上昇し続けると錯覚して、借り入れ2年後に金利が跳ね上がるサブプライムローンを借りた。住宅金融会社は住宅債権を投資銀行に売却し、売却資金を再び住宅ローンに投入した。ローン残高は加速度的に増大した。
投資銀行は、金融工学を利用し、大量の住宅債権を束ねて信用度が異なる3種類の仕組債に分け、大部分を高い格付けの証券化商品に仕上げた。住宅価格は06年始めまで上昇を続けたので、この高い格付けの証券化商品は、年金基金、ヘッジファンド、商業銀行などに順調に販売された。住宅金融会社と投資銀行が一体になって信用を創造していたのである。
ヘッジファンドは債権の証券化が進むとともに、クレディット・ディフォルト・スワップ(CDS)の販売を伸ばした。これは、例えば、住宅債権を証券化した商品を購入した人が同時にCDSを購入すれば、ヘッジファンドがその証券価格が低下した時、保証してくれるのである。ヘッジファンドには、金融工学の達人が揃っていた。彼等は住宅債権の証券化が急速に進展した95年頃からの統計を利用して、CDSのリスクについて確率計算をし、損失が発生しないという結論だった。投資銀行は、自己資本によってヘッジファンドや企業買収ファンドをつくり、飛躍的に発展した。
商業銀行はBIS規制があるから、投資銀行やファンドのようにCPや借入金によって、加速度的に成長できない。そこで、傘下にSIV(ストラクチャード・インベストメント・ビークル)をつくり、そこに貸付債権を売却した。それによって、資産をバランスから除去するとともに、利息収入をグループ内に維持できた。またSIVはファンドのようにCPを発行して資産を積み上げた。
また商業銀行はSPVやいろいろなファンドと必要が生じた時に一定金額について融資するという枠を契約し、相手の信用を補強して手数料を稼いだ。
CDSの契約額は40兆ドルに達したという。金融機関以外でCDSを所有したのは全体の3%に過ぎなかったという。金融界では、GDS、格付け、緊急融資枠の設定、モノラインの保証等多様なリスク分散の手段が開発され、金融界の内部でリスクを保証し合い、それによって、証券化商品のリスクが消えたと錯覚していた。
アメリカ経済は住宅投資と個人消費に支えられ、2002年から06年にかけて年率3%の成長を遂げた。この間、住宅新築戸数は40%増え、年間換算で220万戸を越した四半期もあった。中古住宅価格は50%も上昇した。住宅の担保価格が上昇したので、低利で有利な住宅担保の消費者ローンも伸びた。
国際金融市場では、ドル資金が産油国における過剰資金の発生など、アメリカが貿易収支赤字を通して世界に散布した豊富資金によって金融は緩和した。また、日本は超低金利政策を続けた。国際金融が締まると、ヘッジファンド等が低金利の円を借りて、ドルやユーロに換えて証券投資した。
アメリカ経済が拡大を続け、設備の稼働率が向上すると、90年代終わりのIT投資の好影響が現れた。95年以降10年間で、アメリカ経済の生産性は年率3%で成長し、日本経済を引き離した。IT株が多いナスダックは10年間で10倍になった。
なお、貿易収支については、06年にはアメリカの対日赤字が90億ドルに対して、対中赤字は233億に膨張した。もはやアメリカ人は中国の製品なしには生活できない。中国の外貨準備は5年間で5倍の2兆ドルなり、日本の2倍だ。アメリカの貿易収支の赤字は、中国によるアメリカ国債の購入等によって、ファイナンスされた。中国は、アメリカ経済の存立に不可欠な国になった。アメリカ経済の強みは弱みをつくった。
7. 泥沼の金融危機
06年には、住宅ローンと消費者ローンを証券化した金融商品の残高はそれぞれ6,5兆円、2,2兆円に達し、10年間で3倍以上になった。
アメリカにおける家計の税引き後所得に占める債務の比率は急上昇し、同じ期間に92%から135%に跳ね上がった。債務が多くなれば、利息の返済負担に押されて家計が成り立たなくなる。その上景気過熱を抑えるために、FRBは94年の後半から金融引き締め政策を実施した。06年頃から住宅ローンの返済が滞り始め、住宅価格は低下に転じた。住宅バブルと証券化技術によって、創られた需要は、一旦、崩れ始めると、止めどもなく崩れ、その速度が加速するものだ。
値上がりを期待して購入した住宅は値下がりし、かつローン金利が跳ね上がった。返済不可能な借り手が増えた。担保の住宅が次々に売却されると、価格はさらに下った。住宅の売り急ぎが始まった。また住宅の担保価格が低下し、消費者ローンの返済を迫られる人が増えた。
また住宅債権を証券化した金融商品は、その債権の内容が判らないので、不安感から売却され、価格が下がった。その金融商品を所有している金融機関では評価額が低下し、巨額な損失が発生しだ。
CDSについては、1住宅債権の不良化、2,金融商品の価格暴落、3,金融機関の経営危機といった条件の下で、どれ程巨額な補償金が発生してるか、評価できなかった。多くのヘッジハンドやそれに融資枠を与えている銀行が危ない。どの金融機関についても、抱えている不良資産の大きさが判らないのだ。リーマン倒産と共に、短期金融市場が機能しなくなったのはそのためだ。
これから銀行や大企業救済のために巨額な公的資金が投入される。オバマ政権は、太陽光発電を始めとする環境対策を始めとして、巨額な公共投資を計画している。
財政赤字は拡大して国債発行が激増するが、国際市場では吸収できないだろう。アメリカは貿易収支赤字を資本収支黒字で埋めることが不可能になった。対策は消費を圧縮し、輸出を増やし、貿易収支赤字を減らすことしかない。現在銀行の貸し渋りの結果、消費も住宅建設も大幅に減少し、内需が急速に圧縮された。政府の財政政策の効果は大不況への突入を防ぐぐらいであって、内需を拡大する力がない。
08年秋には、住宅中古価格は、ピークに対して20%になった。過去のいろいろな国の不動産バブル崩壊の例から考えて、40%ぐらいまで低下する。当分回復不可能だ。
国際市場では、アメリカの金融商品の需要が減少し、今後ドル安傾向が続くだろう。輸出プレッシャーとドル安によって、アメリカの輸出は増加し、貿易収支の赤字が減少するはずだ。アメリカの輸入超過が世界経済の成長をリードす時代は終わった。
輸入大国・アメリカは最後に金融によって住宅需要を創造し、それで息が切れた。
8. リーダーの交代
日本や新興国は、輸出依存では成長できない。世界経済の成長は中国、インド、ブラジル等の人口大国の内需拡大にかかっている。中国の内陸部には、貧しい10億人がいる。最近年間10万件近い暴動が発生しており、その対策として、政府が社会資本投資が増えれば内需拡大の引き金になるだろう。中国は威信にかけて8%成長を守るつもりだ。もし、中国がさらに高度経済成長を続け、輸入国になったならば、中国とアメリカを核とした世界経済が生まれるだろう。20年先にはそうなると予想する人が少なくない。
日本が内需を拡大するためには、政府の関与が大きい新しい経済システムが必要だろう。