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中央口論 2001年9月

老いの計画:路地裏の人生学

趣味の原稿書き

私の趣味は原稿書きだ。原稿が完成すると、その内容を人に話したくなるものだ。人に話す都度、さらに深く調べるべきだったという反省が起きる。 もっとよい原稿をつくるためには、識者の意見を聞き、また内外各地に出掛けて生きた情報を集める必要がある。それは楽しい仕事だ。私の趣味は原稿書きから、講演、研究会、旅行に広がった。

私は、長銀調査部から長銀総研に移り、現在、静岡経済研究機構(静岡総研)に勤めるかたわら、竹内経済工房で本づくりに励んでいる。 お陰で今まで約45年間も趣味に生きることができた。 残された時間もそうしたいと思っている。

人間は趣味に生きれば健康になるものだ。 私は6年前にウズベキスタンを旅行中に突然喘息の発作に襲われ、ロンドンに送られて緊急入院した。日本にもどってから、「肺気腫、余命5年」と診断され、2年間も入退院を繰り返し、すっかり痩せてしまった。 入院して発作がおさまると直ぐに、ベッドの上で引き受けていた原稿をいくつも書き、退院するや否や約束していた講演に出かけた。何回も病院から直接に講演会場に向い、自動車を降りて会場まで車椅子でたどり着いたこと
もあった。頑なに趣味の生活を守っているうちに、次第に健康を取り戻し、入院とは完全に縁が切れた。

その後間もなく、長銀が破綻し、長銀総研が消え、私の移動は社用車から、徒歩と電車に変わった。歩くと生きた経済を観察できる。また昼の電車は、社会の変化を知るには最適の場所だ。吊り広告をゆっくり読める。中年女性は海外旅行の話をよくしている。旅行先も中央アジアや中近東に広がっているらしい。子供が海外の駐在員になっている人が予想外に多い。外国人が連れだって乗ってくる。国際化は私たちの身辺に浸透していることがよく判る。私にとって、長銀破綻は悪いことばかりではなかった。

故郷の助け

長銀総研を退職すると、若いエコノミストと議論する機会がなくなり、また内外の経済動向や経済論壇の動きに疎くなるはずであるが、私は故郷のお陰で、その問題を克服できた。 私は「故郷馬鹿」であり、故郷から講演や委員会への参加などを依頼されると、喜んで引き受けた。清水市では、連続20年以上も、新年の景気見通しの講演をやっており、市の長期ビジョン委員会の委員長になったこともある。 約20年前には、パチンコ文化賞の賞金200万円も市に寄付した。清水東校同窓会関東支部の会長を長くやっている。

また、静岡県の経済風土についてしばしば雑誌に書き、NHKテレビ等に出演のおり、機会をとらえて静岡県をPRした。また静岡テレビでレギュラー番組を持ったこともあり、かなり前から静岡新聞の論説委員でもある。静岡新聞主催の大規模な新年名刺交換会には皆出席だ。そういう努力が認められて、15年前から、静岡総研の理事長(非常勤)に就任し、また、5年前から静岡アジア太平洋学術フォーラムという、大掛かりなイベントの委員長にもなった。

静岡総研では、若い研究者や自治体の企画担当者と議論する機会が多い。また代表的な県内企業の経営者と毎月景気懇談会を開いているので、実際の経済の動きに触れることができる。 アジア太平洋学術フォーラムでは、毎年のテーマを内外の一流学者の相談しながら決めているので、先端的な学問に触れることができる。またアジア諸国に出かける機会が多いから、生きたアジアを観察できる。私は静岡をアジアに対する情報発信基地にするという雄大な目標のために頑張らなければならない。

清水には、小学校から大学まで同じコースを辿った歴史作家・田口英爾君がいる。約15年前に、彼と「次郎長翁を知る会」をつくった。現在会員は200名に達し、総会には市長や地元有力者が参加してくれる。毎年、会員有志とともに次郎長ゆかりの地を旅行している。田口君は、英語塾、相良の石油開発、広瀬中佐をはじめとする交友関係など、次郎長の業績を実に詳しく調べた。私は、2年前に彼と共著で「次郎長の経済学」(東洋経済)を書き、これから、次郎長と同時代に清水にいた「滝口入道」の高山樗牛の研究を始めようとしている。彼の出身地の鶴岡市の人達と共同研究できないかと考えている。幸い鶴岡市長は私の友人だ。「次郎長を知る会」
を通じて、企業の幹部の人達とすっかり仲良くなり、生きた経済情報がいくらでも手に入る。

老いの克服

老人は時代の変化に遅れるものだ。この欠陥をカバーするためには、審議会や研究会に参加し、必要な場合には自ら研究グループつくり、時代の流れの感触を掴むことが重要だ。 私はいろいろな審議会や研究会に参加している。出席率が良いので、次第に重要メンバーになって再任を繰り返し、委員長に任命される会もある。私がメンバーになっている審議会や委員会の数はは20を越えている。その中には、10年間以上にわたって毎月開催されているもの、合宿して討論するもの、地方へ実査に出掛けるものなどがあり、それぞれがまるでゼミナールのような雰囲気だ。 委員の先生方とは10年来のつき合いになるから、お互いに、気取らずに素直な気持ちで議論できる。この機会に私の知識や見識は万巻の書を読むよりもはるかに深まるのである。老いを止めるには、これほど役立つものはない。

秋岡栄子氏は長銀時代からずっと一緒に働いてきた人で、昨年、情報交流を目的としたエイ・アンド・シー社を設立し、その事務所を竹内経済工房の中に置いている。 彼女は旧長銀総研の研究者達を工房に集め、毎月研究会を開催している。 また学者や研究者をメンバーにしている静岡総研のアジア研究会では、コーディネイター役を引き受けている。 これらの研究会は強烈な知的刺激を与えてくれる。 欠席すれば、時代から取り残されるので、私は毎回出席だ。

老いの問題点の一つは物忘れだ。長銀総研時代には、秋岡さんが秘書の仕事をやってくれたが、何時までもすべてを頼るわけには行かない。私は物忘れに真剣に戦わざるを得ない立場になった。有り難いことに、動作を伴うと忘れないものだ。  例えば自分で新聞の切り抜き作業をやると、自然に記事の内容を覚え、また切り抜き帳に綴られている記事の流れが系列的に頭に入るものだ。自分で名詞を整理すれば、人の名前を覚えやすい。しかし、それでも忘れることがある。忘れてはならない人の名前や「ドットコム」と言うような新しい単語は自分の部屋で何回か大声を出して叫べば忘れにくくなるものだ。

老いた私にとってもう一つの問題はIT時代への対応だ。私は3年がかりでやっとパソコンで原稿を書き、メールで送れるようになった。最近インターネットも利用し始めた。ところが、パソコンが突然作動しなくなることがある。幸い、女房が「パソコンばあさん」であるから何とかピンチを凌いでいる。また、私の工房は私の娘が経営している零細な出版プロダクションの隣室にある。そこで働いている若い人にも習っている。私は家族に支えられて,IT時代に対応している。

老後の趣味のやり方

私は、老人になっても、何とか情報網を保ち、物忘れをカバーし、また情報機器を使って、趣味に生きている。では、現在、何をどのようにして書こうとしているのか。長銀総研を離れたので、景気見通し無理だ。45年間の調査の経験と調査仲間の和を生かすことができ、かつ熱情を感ずるテーマを選ばねばならない。

現在手を付けているのは、まず「長銀が何故倒産したか」と言うテーマだ。これは、日本経済の構造的衰退、世界の金融革命、日本的な金融行政と銀行システム、長信銀制度の崩壊、長銀の経営の失敗等検討すべき要因が多く、私のライフワークになりそうだ。私の半生は長銀とともにあり、私の同僚が2人も自殺したから、それは当然の勤めである。まずその手始めに、「頭取の苦しみ」という本を間もなく出版するつもりだ。 同時に、3冊の本を手がけている。 その一つは、巣鴨のとげ抜き地蔵の商店街(通称おばあちゃんの原宿)の繁栄の原因を探り、街づくりの原点を考えようというもの。これは娘の出版プロダクションの若い人達との共同調査によって制作している。

もう1つの本は、風土が地場産業の形成に与える影響だ。浜松市周辺から、トヨタ、ホンダ、スズキ、ヤマハ、カワイ等、世界の巨大企業が続出した。現在でも、浜松ホトニックス等ハイテク企業が多く生まれている。何故、浜松市周辺からだけ、世界的企業が発生するのか。 その原因は徳川中期にあるらしい。浜松藩は教育熱心で、また国学や篤農思想が栄えた。木綿や茶が生産された。木綿は、綿織物、自動織機、オートバイ、自動車へと発展した。自動織機の生産には、機械部品や鋳鍛造品が必要だった。それは楽器産業が栄える基礎を形成した。ここから、豊田佐吉、山葉寅楠、本田宗一郎といった天才が育った。

浜松に較べると歴史は短いが、アメリカのシリコンバレーでハイテク企業が続出したのも、独特な風土的背景があったに違いない。中国では、浙江省だけボタンの製造をはじめとして次々に新地場産業が生まれているのは、それ相当の風土的背景がありそうだ。それらの研究も進める予定だ。 これはかなり大掛かりな調査になるから、元長銀総研の研究員であって、現在、大学教授やシンクタンクの研究員になっている人達、静岡県の郷土史研究家や地場産業研究家と幾つかの研究会をつくる予定だ。幸いなことに、サントリー財団から研究補助金を貰うことになった。 私のような老人の取り柄は、顔が広いので、共同研究するメンバーを集めやすいことだ。アメリカには、親しい友人がサンフランシスコに住んで、シリコンバレーの研究をしており、浙江省にも知り合いがいる。もはや、一人で調査を進める知力も体力もないので、私より相当若い人達との共同研究に頼るしかない。

 三つ目の本は、日本経済の衰退をもたらした主たる理由は政府の規制であり、それがいかにひどいものであったかを、長年のサラリーマン生活の体験から具体的に書き、規制撤廃にともなう発展と混乱を予測するものだ。これも旧長銀総研OBとともにつくるつもりだ。

猛烈調査マンの老後

私には第二の人生がなかった。それは第一の人生でかなり無理して頑張ったので、それがそのまま続いていると言える。長銀時代には、新入行員のとき融資部門にいたが、利息の取り忘れ等のミスを繰り返した。人事部は私の調査好きを知ったらしく、調査部に転勤させてくれた。殆どすべての行員は、人事ローテーションに乗って移動し、ゼネラリストになることを望んだ。それが栄達コースだった。 私はゼネラリストとして必要な事務能力や調整能力に欠けていたので、ゼネラリストには興味がなかった。

私は調査部を追い出されないように一生懸命に働いた。その頃、私はマルクス・ボーイであって、労働組合をつくり、専従書記長になり、六五年安保闘争に加わった。銀行には長く勤められないと自覚したので、学者を目指し、猛烈に調査の仕事に全力を投入した。 その頃、外部の雑誌に書くのは、個人プレーであって、けしからん行為だと考えられていたが、私は学者になるためには、本を書き、雑誌に寄稿して、実績をつくらなければならなかった。個人の原稿を勤務中に書くわけにはいかない。私は三〇才頃から、すべての土曜、日曜を執筆に当てた。 銀行の図書館に真夜中過ぎまで、閉じこもって書く日も多かった。家庭では、育児に協力する時間的余裕がなかった。子供とは疎遠のままだった。ゴルフは今までやったことがない。

私は、人から頼まれれば、頼んでくれたことを感謝して、すべて引き受ける主義だった。その主義に沿って、朝日新聞、世界、エコノミスト等に連載記事を書き、NHKの「一億人の経済」や「ビズネスネットワーク」のキャスターを長い間勤めた。日経新聞社から頼まれた「路地裏の経済学」が、たまたまベストセラーにもなった。  私は汽車の中でも、駅の待合室でも原稿を書いた。風呂の中で参考文献を読んだ。 私はスキーが好きだった。スキー小屋でも、ゲレンデのレストランで休んでいるときも書いた。 四〇才代の後半から、五〇才代の前半にかけては、一年間に二冊というペースで、本が出版された。

長銀の活動が国際化するにつれて、海外調査や海外講演の仕事が増えた。私は国際部から頼まれればどの国でも出掛けた。 そのために、英語の個人教師について英語を習い、海外留学や海外駐在の経験はなかったが、英語で講演できるようになった。カウントリー・リスクの調査などで、中近東、アジア、ソ連東欧、アラブ・中近東、南米等の約六五カ国に出掛けた。

韓国、中国、台湾には、先方の講演依頼等に応じて、毎年何回も出掛けた。 通算してみると、それぞれの国にもう100回ぐらい訪問したことになる。一泊で帰ることもしばしばだった。お陰で、それらの国の学者、文化人、政治家に多くの知人ができた。 私の著作のうち、3冊が中国語に翻訳され、そのうちの一冊は、現在でも北京の本屋で売られている。韓国では、何回もテレビに出演し、また韓国の新聞に連載を書いたこともあった。

私はどんな経験でも、本にまとめた。「スキーの経済学」「知られざるアラブ産油国」「国際版路地裏の経済学」「路地裏の中国経済」等がそれだ。五〇才代になって、国内を調べてないことが判った。中央公論の「ウイル」という雑誌に四年間にわたって、全都道府県の経済風土記を書き、「各県別路地裏の経済学」全六冊の本になった。

何でも引き受けた

私が第一の人生をずっと続けられた要因は、何でも積極的に引き受けたため、視野が広がり、経験が豊かになり、友達が増えたことにある。例えば、私が「スキーの経済学」の執筆を引き受けて、それを出版すると、各地のスキー場から講演依頼を受けるようになった。 海外ではアメリカのコロラド州から「日本のスキー客誘致の方法」について、またオーストリアのスキー会社から「日本のスキー事情」について委託調査を受け、何れも長期にわたって現地調査を行い、海外のスキー業界に知り合いができた。

スキーのメッカである白馬村では、村長をはじめ友人が沢山おり、いろり塾の塾長も引き受けている。この他、スキー関係では克雪利雪協会の会長や安塚町の雪だるま財団の理事にもなっている。  朝比奈隆さんは、九十才を過ぎて、ベートーベンのシンフォニーの全曲を指揮し、絶賛を博した。会場は満員だった野上弥生子は九十九才で「森」を書き上げ、葛飾北斎は九十才まで筆を執った。六代目歌右衛門は七十九才を過ぎてから十八才の少女役を見事に演じたという。ミケランジェロは八十九才まで鑿を握り、ピエタ像を完成した。ドラッカーは九十才過ぎても教壇に立ち、サミエルソンは八〇才半ばになっても、鋭い経済分析を行っている。中曽根さんは日本国家ビジョンを示し、強い政治的影響力を持っている。

世の中には、寝たきりになる人もいれば、九十才台まで、現役のように頑張る人もいる。私はサミエルソンやミケランジェロを目指して、人生最後の努力をしたいと思っている。二年後には、静岡文化芸術大学で教鞭をとることになっている。 仕事量を五〇才代の四分の一ぐらいに落とせば、何とかやれそうだ。もし、身体がきかなくなり、介護を受けるようになった時には、、その体験を「介護の経済学」に纏めるだけの気力を持ちたいものだ。 私のさし当たっての老後の準備は生命維持装置を付けられないために尊厳死協会に入ったことぐらいだ。

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