その他の連載・論文

エコノミスト 2003年6月24日号

企業リポート:ヤマハ
 独自の音楽文化強みに「失敗」からの脱却

巨人・川上源一氏の多角経営路線で世界最大の楽器メーカーに成長したヤマハ。カリスマ亡き後は「音楽回帰」がカギになる。

ヤマハはIT不況の影響を強く受けて、1999年3月期と2000年3月期には合計で約560億円の最終赤字になった。原因は過大な半導体投資にあった。

楽器は、1970年代頃から、電子化の一途を辿り、素晴らしい音質と機能を備えた新製品が続々と登場した。ヤマハは電子化の先頭を走り、61年にはエレクトーンを開発し、以後、今日まで電子ピアノ、シンセサイザー、キーボード、サイレント楽器等の新商品を継続的に市場に送った。80年代後半から、電子楽器・オーディオ・電子部品等を生産する総合的な音響の電機企業に発展した。

ところで、楽器の電子化とともに、製品のライフサイクルが短くなった。東アジアで電機産業が成長し、電子楽器の生産拠点がそこに移転し、価格が急速に下がった。例えば、エレクトーンは毎年のように新製品が現れ、遂に電子キーボードが出現した。それはかっての超大型エレクトーンよりも豊富な音を自由ににつくれる。しかし、競争が激しくなって、価格が下がり、収益率が低下した。

多角化のジレンマ

ヤマハの業績推移(連結ベース)         (単位(百万円)
  2003年3月期 2003年3月期 2003年3月期
売上高 524,763 504,406 519,104
経常利益 33,839 7,680 19,238
営業利益 32,043 11,043 23,001
当期利益 17,947 10,274 13,320
設備投資 16,883 16,627 14,770
減価償却費 17,586 18,767 17,310
売上高設備投資率 3.2% 3.3% 2.8%
  (注)▲はマイナス (出所)ヤマハ会社資料

 

ヤマハは半導体などの基幹的な電子部品が新しい収益源になると判断した。電子楽器は一種のコンピューターであり、ヤマハは「音源チップ」には自信があった。その自信は汎用の半導体や電子部品の自信に広がった。半導体は70年代中頃から、内製されるだけだったが、80年代にはいると外販された。90年代には多様な半導体を生産するようになり、生産規模が拡大した。

また半導体の生産技術を利用して、高性能の薄膜ヘッドを生産し始め、さらにCDーRドライブ、ルーター(ネットワーク上を流れるデータをたのネットワークに中継する機器)、半導体部品のリードフレームなどの生産を拡大した。薄膜磁気ヘッドの生産額は一時500億円を超した。ヤマハは国内では、付加価値が高い電子楽器の重要部品やソフトを生産し、海外工場で組み立てるという体制をつくりたかった。

しかし、東アジアの電機産業が急速に力をつけ、さらにアメリカでITバブルが崩壊したため、半導体等のIT部品は世界的に供給過剰になった。また日本経済は長期低迷に苦しみ内需が縮小した。ヤマハでは、半導体や磁気薄膜ヘッドの設備が過剰になり、NEC、東芝、日立等の大企業と同様に大規模なリストラを実施した。遂に最新鋭の天竜半導体工場が売却され、最も得意とする「音源チップ」を生産する鹿児島工場が残った。また02年3月期には、株式の時価評価損と在庫整理によって、250億円(単体)の最終赤字になった。

ヤマハには、半導体投資の失敗から立ち直れる余力があった。それは楽器造りの先端を歩んだ100年以上の歴史と、音楽教室等によって音楽文化を創造した50年の歴史によって、音楽に関する膨大なノウハウが蓄積されているからだ。

音楽文化の強み

ヤマハ音楽教室の出身者が一流の国際コンクールに続々と入賞し、昨年の第2回チャイコフスキー・コンクール(4年毎に開催)では、上原彩子さんが一位に入賞を果たした。また、外国人の入賞者の多くがヤマハ・ピアノで演奏するようになった。

ポピュラー・ミュージックでは、自由に作曲し、自由に演奏して表現するというヤマハ文化が広がった。ヤマハ関連の多様な音楽コンテストから、中島みゆきやサザンオールスターズのように作詞・作曲・演奏を手がけるフォークやロックのスターが生れた。それは現在のJーpop愛好者の厚い層を創りだし、エレキギター、ドラム、アンプ、電子式キーボード等の需要が拡大した。

ヤマハは長い歴史の中で自己資本を蓄積し、その額は2000億円を軽く越している。音に関するソフトの蓄積が膨大であり、それを時価評価すれば、自己資本を上回るだろう。銀行借入金はごく僅かであるから、数百億円の赤字が発生しても、経営はビクともしない。その上関連会社には売上高一兆円のヤマハ発動機がある。ヤマハは電子部品へ突っ込み過ぎた経営を、音の方向に戻し、新しい中国戦略を考えればよい。最近の目立った動きを要約すると、つぎのようになる。

第一に新しいマーケットの開発だ。老後の趣味を求める中高年層を狙って、ピアノ、バイオリン等いろいろなサイレント楽器が開発された。それはヘッドフォーンやアンプを通して本物の楽器の音を出せるので、集合住宅の住民や”下手の横好き”の中高年に好評だ。また音楽教室に中高年向けのコースがつくられた。彼等は好きな数曲だけを弾けるようになるために習っている。ホームシアターも中高年齢者がターゲットだ。

第二に最も得意とする「音源チップ」の応用である。携帯電話の着メロが急激に伸び、300万人を越す人が利用している。ヤマハは電子楽器やカラオケセット等の事業を通して、膨大なメロディー・ソフトを蓄積している。着メロは後発だったが、見事に成功した。また「音源チップ」は単体として好調に売れている。他のメーカーが利用するのである。

第三にネット事業だ。かってアマチュアのプロへの登竜門として、一時代を築いたポプコン(ポピュラーソングコンテスト)をネットでもやろうと言うわけだ。ヤマハのサイトで視聴者参加のオーディションが行われる。選ばれた曲はネットで配信され、配信の権利はヤマハに帰属する。これが将来の収入源になる。またコンピューターやオーディオから、オン・デマンド(必要なときに、必要なだけ)で音楽番組を聴いたり、着メロを試聴するサイトがつくられた。

第四に中国対策だ。現在、中国で電子式キーボード等の電子楽器を大量生産し、またインドネシアの工場は、音源チップを日本から、その他の半導体や電子部品を広東省から、調達して電子楽器を組み立てている。中国製やインドネシア製は世界に輸出されている。今後、新たな大型工場を中国に建設し、電子楽器だけではなく、内需が急増しているピアノ等のアコースティック楽器の大規模生産を開始するという。

中興の祖、川上源一

1995年8月浅間火山レースの視察をかねた乗鞍までの耐久テスト途中の川上社長(車両はYBー1)
ヤマハの特色は、波乱の歴史を眺めると、浮き彫りになる。歴史はつぎの5つ時期に分けられる。

①紀州藩士で天才的な発明家だった山葉寅楠が、1887年、偶然、浜松でオルガンを修理し、2年後にそこでオルガンを生産し、12年後アメリカから材料と機械を輸入してピアノを生産するようになった。彼は日本楽器製造(現ヤマハ)を設立し、急速に成長した。

②寅楠の死後、1926年に、日本楽器で労働運動史に残る大争議が発生した。共産党員のプロ運動家がリードし、血みどろの戦いが続いた。

③浜松出身の川上嘉一が日本楽器の再建を任せられた。彼は東大を首席で卒業した後、住友電線に勤め、ドイツ・イギリス・フランスに留学した。日本楽器に近代的な組織や生産方法を持ち込み、例えば、世界で始めて音響実験室をつくり、科学的にピアノを設計しようとした。彼は絵、書、和歌、随筆の腕前はプロ並みであり、芸術の理解者だった。彼の指導によって、ピアノの品質は向上し、日楽は新しい成長軌道に乗った。

④嘉一の長男・源一は、学校の成績が悪く、親から「バカ呼ばわり」されて育った。旧制甲南高校に入学できたが、彼の情熱は社会主義運動に向かい、1928年に過激なビラを撒き、2ヶ月も留置所で暮らし、退学させられた。彼は高千穂高商に3年遅れで入学し、今度はトップになり、リーダーとしての自信をつけた。

⑤源一は「川上天皇」「ヒットラー」等のあだ名が付いた異能の経営者だった。「異能」は、つぎのような要因によって、一層刺激された。一つ目は、楽器産業は誇るべき文化的な仕事だと強い自覚をもった。二つ目は、日本楽器は寅楠、嘉一という天才によって育てられ、また労使大決戦の場に選ばれるほど存在感がある企業である。三つ目は、音楽の才能に自信を持ち、また社会主義運動に飛び込むほどの情熱があった。彼は1950年に38歳の時、父親によって、社長に抜擢された。

源一は勘の良さでは天才的だった。社長就任3年後の世界一周旅行で、強烈なカルチャーショックを受け、つぎのような感想を持った。 1、ピアノはヨーロッパでは斜陽産業だということ。アメリカのように大量生産しなければ成長できない。2、アメリカではハモンドオルガンが成長しており、楽器の電子化が必要だ。3、欧米の住宅地ではピアノの音が聞かれる。音楽需要を拡大するためには幼児教育が必要だ。4、欧米人はヨットやボートを楽しんでいる。ヤマハは将来楽器だけでなく、総合レジャー企業に変わるべきだ。彼の予想はすべて当たった。

源一は「音楽は科学と結びつくから、技術者が重要だ」と考えた。東京大、東京工業大の学生に、全額学費を出す代償として将来の就職を約束させ、浜松に人材を集めた。貧しい時代であるから、8年間で累計80名の学生が集まり、彼等が技術的担い手になった。

ピアノ生産で最も重要なのは良い響きの木材をつくることだ。帰国後すぐに、最新鋭の木材乾燥室をつくり、流れ作業によるピアノ生産の基礎を築いた。ハモンドオルガンはアメリカのような真空管方式ではなく、半導体方式に決め、研究のため社員をアメリカに留学させた。かなり無理なやり方だったが、新製品のエレクトーンが生まれ、楽器の電子化が始まった。

源一の音楽教育は初見や即興で楽しく弾ける子供を育てることだった。幾つかの曲だけを巧く弾くのは単なる芸人だという。芸大・音大によるクラシックの芸人づくりを非難し、それに対抗して、ポピュラー・ミュージックを育て、幅広い客層を掴んだ。もっとも、グランドピアノになると、ヨーロッパの超一流演奏家にヤマハのピアノを弾いてもらい改良点を訊いたり、社員をイタリアの超一流調律師に弟子入れさせてもらうなど、涙ぐましい努力を重ね、遂にキャッチアップした。

また、戦時中のプロペラ生産設備が残っていたので、2輪車に参入し、1955年に、ヤマハ発動機を設立した。エンジン技術はボートに利用され、またボートのFRP樹脂はヨットやスポーツ用品に使われた。「合歓の郷」(三重県)や「つま恋」(静岡県)等大型リゾートを開発し、そこでヤマハ・コンクールの最終選考会を開いた。

「カリスマ」後の課題 

源一は、年齢とともに短気になり、反応が遅い人には「お前はクビだ」と怒鳴り、本当にクビにしたこともあった。オイルショックの時にはスリム化のため、部長の数を半分以下、課長の数を3分の1以下に減らし、社内を震え上がらせた。また同じ浜松にあるホンダ、スズキ、カワイといった競争相手には敵愾心を燃やし、相手の役員が挨拶しても碌に答えなかった。競争企業は彼に対する反発をバネにして成長したという。降格人事の2年後の77年に、彼は突然会長に退いた。「後継社長は完全な会社を引き継ぐので、5年ぐらいはやることがないはずだ」と公言した。

間もなく、現代的経営に重点を置くという河島新社長の考え方と、ヤマハ音楽文化の普及や総合レジャー産業に関心を持つ会長の考え方とが衝突した。もし新社長の方針が貫かれていたならば、ヤマハはもっと早くIT化して、現在、キャノンやシャープ並みの1兆円企業に成長したかもしれない。ところが源一会長は社長を息子の裕氏に替えた。

ヤマハはまるで川上家の同族会社となり、社内に反発が強まり、またバブル崩壊とともにリゾートやスポーツ部門が不振になったので、源一の影響力は急速に消えた。ヤマハは遅れてIT化した部門をリストラして立ち直り、経済が低迷しているにも拘わらず、現在では株価が1500円前後に戻った。それは、巨人・毛沢東の影響が消え、やっと健全になった中国経済に似ている。巨人・源一は昨年90歳で亡くなった。

ページのトップへ