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鶴岡ファン通信七月号

高山樗牛と阿部次郎

今年は高山樗牛死後100年に当たる。彼は私の故郷である清水市の龍華寺に眠っている。眼下には駿河湾が広がり、秋にはその向こうに富士山がくっきりと大きく見える。春は駿河湾も富士山も霞んでいるが、この一体は桜の名所だ。夏には「ころも蝉」が五月蠅いほど鳴き、間もなく「ひぐらし」が夏の終わりを知らせてくれる。

お寺の庭には東洋一と言われている蘇鉄の老木が長々と寝ころぶように広がっている。その奥に樗牛の墓石があり、それを囲む石の壁に樗牛の胸像が填められ、その下に「吾人すべからず現在を超越せざるべからず」という銘句が刻まれている。私は子供の頃、ガキ大将に引率されて、よくこのお寺がある小山で遊んだものだ。すぐ裏が日本平である。

私は旧制高校の時、「滝口入道」を読み、「横笛」とのプラトニック・ラブの悲しさを描いた文語体の美文に感動した。その頃にはそれはゲーテの「若きベルテルの悩み」や倉田百三の「出家とその弟子」とともに学生の必読の本だった。当時の私には「横笛」の柔らかい美しさと樗牛の墓の固い銘句とはどうしても結びつかず、多分「現在を超越して恋に生きよ」という意味だろうと思っていた。丁度、厨川白村の「近代の恋愛論」(ラブ・イズ・ベスト)という本が広く読まれていた時代だった。

樗牛は東大在学中に「滝口入道」を書いた後、次々に評論を発表し、夏目漱石とともに英国に留学するはずだった。ところが、不幸にも、結核に罹り、鎌倉、大磯と転地療養をしつつ、清水市の景勝地興津にもしばしば宿泊した。

彼は日蓮宗の一派を築いた田中智学に次第に惹かれ、国家社会主義を夢見るようになった。不治の病と国家社会主義の理想を求めて焦る気持ちが「現代を超越せざるべらず」という言葉になったに違いない。彼は32歳で平塚の病院で亡くなった。遺言通り清水の名刹で日蓮宗の龍華寺に墓がつくられた。残念ながら清水では樗牛研究家が少なく、文学好きな人達は思想家としての樗牛の研究を持て余し気味だ。

旧制高校時代の教育では、生徒は「人生とは何か」という疑問を抱くべきであり、学問はそれを解決するための存在だという考え方を叩き込まれた。それに答えるためには、まず阿部次郎の「三太郎に日記」を読むべきだった。私は人生に特段の疑問を持っていたわけではないが、この本によって「哲学とは何か」とか「人生について考える方法」が理解できたような気がした。

私はこの頃からの哲学好きになり、旧制高校理科に在学していたが、カント、ヘーゲル、マルクスというその頃の「定番」の読書コースを辿り、マルクス経済学という「哲学」を学ぶために、大学は経済学部に進んだ。

阿部次郎は松山町出身である。私が青春時代に思想的に世話になった高山樗牛と阿部次郎はいずれも鶴岡市やその近郊出身であるから、足を向けて寝れない。鶴岡藩は名門藩学校を持ち教育水準が高かったので沢山の人材が生まれた。羨ましい限りだ。

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