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エコノミスト 2003年4月15日号

企業リポート:スズキ
 快進撃を続ける「スズキ式経営」の秘密

3年連続の増収増益

「年間生産台数400万台」が世界に生き残る自動車メーカーの条件。スズキはその半分の200万台。にもかかわらず快進撃を続ける。その秘密は何か。

スズキは不思議な会社だ。世界の自動車工業では年間400万台を生産している企業でなければ、生き残れないといわれているが、スズキの国内・海外における総生産台数は200万台にしか達していない。それにも拘わらず、90年代から昨年にかけて世界の自動車市場でマーケットシェアを高めた日本の企業は、ホンダのほかにスズキしかない。スズキはこの深刻な不況の中で3年連続の増収増益であり、株価は自動車業界では、ホンダ、トヨタに次いで高く、他のメーカーを遙かに引き離している。自動車業界でも小回りがきく経営を巧みに展開した企業は、「小規模でも成功する」という好例を示した。

振り返ってみると、スズキの経営戦略は「神懸かりのように」当たりに当たっている。78年の排ガス規制をトヨタの協力を得て巧く乗り越えた。70年代における2回のオイルショックによって、ガソリン消費量が少ないコンパクトカーに対する潜在需要が世界的に高まった時に、「アルト」を47万円で市場に送って大ヒットした。これによって2輪車メーカーから軽自動車メーカーに発展する基盤を確実にした。

スズキは1980年頃からアジアを中心として軽自動車の海外生産を開始した。 80年代に入ると、自動車輸出を巡る日米の貿易摩擦が激しくなって、81年から対米輸出の自主規制が行われたので、まずホンダが82年にはオハイオ州で大規模な現地生産を開始した。これに対してスズキはアメリカで現地生産する実力もなければ、またアメリカの軽自動車市場は拡大しそうもなかった。

しかし、70年代から、韓国、台湾を始めとするアジア諸国が目覚ましい経済成長を始め、また中国が79年から市場経済化を導入したので、軽自動車市場が拡大しそうだった。スズキは2輪車生産の経験を生かして、アジアにおける軽自動車の生産を軌道に乗せた。その頃、86年・93年と2回の円高が発生し、それを機会に、アジア諸国の輸出主導型成長が加速した。軽自動車に対する内需が拡大し、スズキは多くの国でトップの地位を固めた。現在、スズキの海外生産比率は50%を軽く超え、日本の自動車メーカーでは最もその比率が高く、フォルクスワーゲンに迫っている。トヨタやホンダがアメリカで強いのに対して、スズキはインド、ハンガリー、パキスタン、中国など中進国や発展途上国で強力だ。

 無謀と言われたインド・パキスタン進出

 ところで、スズキが82年にパキスタン、インドと相次いで現地生産を決定した当時、それは無謀な計画だと言われ、私もそう思った。パキスタンは4つの民族の集合体であり、それぞれの民族は、国内の異民族よりも、国境越しに住んでいる同胞に対して遙かに強い一体感を持っている。インドは30近い言語と16の文字を持ち、ヒンズー、イスラム、仏教など多宗教から成る国家であるから、結合力が弱い上に、カースト制度がある。当時はパキスタンやインドには、やせ細った貧しい人が溢れ、カラチやカルカッタの下町や農村には悪臭が漂っていた。私はその頃鈴木修社長(当時)に「カースト制度が生産の障害にならないか」と訪ねたところ、「ほっほー、カースト制度がありましたかね」という人を食ったような返事だった。

 インド政府が82年に外国企業との合弁による国民車の生産を決定し、政府首脳部が合弁先企業を求めて来日した時、修社長自ら時間を割いて、先ず基礎的技能や技術を習得する必要性について熱弁を振るった。インド政府は社長の誠意と「アルト」の性能を評価して、日本のメーカーの中からスズキを選び、合弁企業を設立した。スズキは、最新鋭設備を導入して一挙に先端技術工場を建設するというインド政府側の執拗な主張を退けて、毎年着実に技術を移転するという方法を決めた。

私は、この3月にニューデリー郊外にある合弁会社の工場を訪ね、スズキの本社工場と同じように無駄がないのに驚いた。先ずこの本社は組み立て工場の中二階に置かれ、その本社事務所から組み立てラインを見下ろせる。それはインド最大の自動車会社とは到底思われない質素さであり、まるで中小企業の本社だ。

 断固として日本式経営を持ち込む 

事務は日本と同じように大部屋で行われ、20人ぐらいが一つの単位になって向かい合った机のブロックが、見渡す限り広がっている。課長は勿論のこと部長にも個室がない。副社長(日本人)の個室は会議室を兼ねており、狭く貧弱だ。

しかし大部屋は実に清潔であってゴミや紙切れも落ちていない。そこはインドではなく、日本にいるようだ。部品や材料納入業者と交渉する部屋はやはり大部屋であって、沢山の机と椅子が置いてあり、交渉が済むと、それぞれの机の上にぶら下がっている紐を引っ張って蛍光灯を消すのである。スズキの本社そっくりだ。大食堂はキャフテリヤ式であり、役員も管理職もブルーカラーも、そこで食べる。

工場では難しい工程が自動機械で行われ、また組み立てラインには必要な量の部品が部品メーカーから直接供給される。部品の輸送コストを下げるため、主要部品メーカーはこの工場の隣接地に立地している。10数年前までは部品や材料は遠くの工場から、牛や駱駝が曳く車で倉庫に運ばれたが、現在はまるでベルトで結合されているようにジャスト・イン・タイムで供給されている。

スズキは日本と風土・習慣が全く異なるインドに日本的経営をそっくり持ち込んだ。階級社会であるインドの知識階級にとって、個室がない、同じ作業服を着る、同じ場所で同じ食事をとる、朝全員で同じ体操をする、掃除片付けをするといったことは、まさに人格無視の職場だ。従業員は、信じている宗教ごとに、食事には牛肉、豚肉、羊肉など異なったタブーがある。彼等にはカースト意識が残っており、また集団で考えた経験がない。それにも拘わらず、一緒に働き、一緒にベジタリアンの食事をとり、「カイゼン」を集団で考えるのである。当然激しい反対運動が発生した。しかし、スズキは少しずつであるが、断固として日本的経営を移植した。累計で800人近くの従業員をを数ヶ月間本工場などで訓練し、スズキ式生産方法を叩き込んだ。確かに「ほっほー、カースト制度がありましたかね」と云える程、カースト制度の匂いがない。

現在、スズキはインドで35万台を生産している。7年前まではマーケットの90%をという独占的地位を占めていた。その後政府は直接投資を自由化し、世界の主要な自動車メーカーが参入したので、スズキのシェアは下がったが、それでもまだ60%を占め、2位のトヨタの4万台を遙かに抜きさっている。スズキがインド、パキスタン、ハンガリー、中国等に、他の自動車メーカーに先駆けて進出したのは、修氏によれば、国内市場ではトヨタ、日産、ホンダを抜いてトップになることは不可能であるが、これらの国では可能性がある。また巨大な人口が存在するので、少し成長しただけで、膨大な軽自動車需要が生まれる。またハンガリーはヨーロッパ諸国への供給基地になれる。この考え方が見事に的中した。

 価格競争力が強み    

スズキの強さは何といっても価格競争力にある。先ず共通部品を多くすれば、部品の数が減り、1部品当たりの発注量が増え、購入コストが大幅に下がる。スズキは新車を巧みに設計して共通部品を増やしたので、1部品当たりの発注量がトヨタ、ホンダに続いて多い。小企業ながら、巨大企業並みのスケール・メリットをあげている。つぎに徹底したコスト削減である。国内の主力工業は6つあるが、いずれも本社から自動車で1時間以内で行ける。部品のほとんどすべては同じく時間距離1時間以内にある部品工場から購入している。幸い浜松周辺には、トヨタ、ホンダ、ヤマハなどの系列部品企業が多い。打ち合わせの時間や輸送コストなどが節約できる上に、大量注文を武器として優れた部品メーカーからでも値引きできる。

スズキの本社には受付がない。運転手付き自動車は2台しかないので、鈴木会長も頻繁にタクシーを使うそうだ。静岡駅で下りの「こだま」の自由席の行列に鈴木会長が並んでいたのを見たという人が多い。スズキの役員は普通車に乗り、駅からタクシーだ。

スズキは直販店が少なく、自動車整備工場等が兼業する販売店(業販店)を通して販売している。こうした業販店はどこのメーカーの自動車でも売るので、売り上げを伸ばすためには、まず彼等から好かれなければならない。業販店大会の時の宴会では、修氏はかっては1人づつ酌をして廻った。700人ぐらいの集まる大会ではトイレで吐いてから、再び返杯を受け続けたという。酒を酌み交わす親しい仲になれば売って貰える。彼は身を削る努力を重ねて業販業者から親戚のように親しまれた。こうして販売が伸び、販売コストが下がった。

スズキは1909年に設立された鈴木式織機製作所から発展した。鈴木道雄はトヨタの設立者豊田佐吉と同じく「天才の大工」だった。鈴木式自動織機は昭和初期に中国や東南アジアに輸出され、道雄は1936年には自動車の試作に成功したが、直ぐに2次大戦になり軍需生産に転換した。浜松は2次大戦前から、繊維、織機、楽器の大産地だった。軍需生産に転換していた企業は敗戦後直ぐに、一斉にオートバイ生産を始め、約30社が激しい競争を展開した結果、技術力が勝るホンダ、ヤマハ、スズキの3社が残り、浜松は世界におけるオートバイの巨大な産地になった。

どうする後継者問題

スズキはホンダの少し前に自動車生産を開始し、自動車業界では最後の参入グループだった。その頃の浜松における巨大企業は楽器、音楽教室、リゾート、2輪車、船外機などを総合的に経営するヤマハだった。社長の河上源一さんは極めて個性的な人であり、新参企業や小型企業の経営者には無遠慮な態度をとった。ホンダもスズキも「殿様」のヤマハを抜くために猛烈に競争して発展を遂げ、今やその目的を果たした。

浜松地域における多様な産業を支えたのは、70年代頃までは旧制浜松高等工業、旧制浜松工業、静大工学部、浜松工業高校など、地元の学校の出身者だった。彼等は沢山の工場に囲まれて育ったため、技能の磨き方や技術の向上の仕方に優れた感を備えていた。スズキのオートバイや自動車のエンジン開発者達はほとんど地元出身者だ。

また、彼等は浜松地域を離れたことがなかったので、部品の共通化、経費の節約はごく当たり前だという感覚が身に付いていた。東京出身の高学歴者が多く「高級技術者ぶった」日産とは対照的な、「地味で奢らない」社風が形成された。最近では、浜松周辺で一生を過ごすつもりだった人が、突然海外で長い生活を送っている。遠州訛り丸出しの「地味で浜松臭い」人達が、強引にスズキ式経営を世界に定着させている。

最近中国製に負けない5万円台のバイク「チョイノリ」、軽四輪のハイブリッド車、電動カート等を販売して、新しいマーケットをスズキらしく開拓している。スズキの今後の問題点は、燃料電池や電気自動車を開発するのに膨大な開発費負担がかかることであり、そのためにGMと提携した。またその提携は南北アメリカにおけるブランドの浸透や小型車の共同開発などに役立つだろう。トヨタ発祥の地は湖西市(静岡県)であり、ここにトヨタ系の燃料電池工場があり、またスズキの主力工場は湖西工場だ。重要な大型部品は近くの優れた部品工場から調達するのがスズキの流儀だから、GMとの提携なしでも、うまく乗り切ると予想する人が多い。

もう一つ問題は修氏の後継者だ。彼は小型の自動車企業を経営する天才だった。スズキは修氏まで三代養子の優れた社長が続き、また浜松には優れた養子経営者が多かった。将来の社長候補者には実子と婿がいる。修会長にとって最も重要な課題が残されている。

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