価値総研「Best Value」

2008年5月

高度成長期のエコノミスト

1. 興銀の統制経済論

銀行の調査部は、敗戦後から90年代までずっと、景気、産業、海外経済の動向を解説・分析し、調査月報に発表した。また現状分析に興味がある学者にとって貴重な資料だった。都市銀行は景気、金融、主要産業の調査が得意であり、東京銀行は海外諸国の経済動向や国際金融に強かった。地方銀行は地場産業を研究し、例えば、北陸銀行は、当時新産業だった合繊織物工業の調査では有名だった。

興銀と長銀は、長期的観点に立った長いレポートを発表した。テーマは産業が多かった。 60年頃までは主要産業について、歴史、海外事情、トピック等を網羅的に述べた。それは業界では便覧として広く利用された。両行の月報には大型なレポートが多かったのは、長信銀制度の存立基盤の弱さを言論によって支えようとしたからだ。

興銀は、47年に債券発行の長期資金を融資する特殊銀行として、再出発した時、直ぐ調査月報を発行し、第1号に調査部長の竹俣高敏が「金融機関国営論」を掲載した。彼は資本主義の存続には国家による補強が必要であり、その中軸は国営銀行である。まず政府が重要を産業決め、次ぎに国営銀行は重要企業を選び、長期資金を集中的に融資すべきだという。その国営銀行は長期資金を融資するから、資金源は預金ではなく金融債である。証券市場が未発達であるから、普通銀行や資金運用部(郵便貯金の資金)が債券の買い手になるだろうという。

竹俣は統制された市場経済が日本経済の再建に最適なシステムであり、安本と興銀がその中核を担うべきだと確信していた。それは1920年頃、ドイツで盛り上がった修正マルクス主義の主張にそっくりだ。当時の日本人は、国家が経済を統制して、重要産業に資源を配分するのは当然だと考えた。また「一億総懺悔」すれば、戦前の官僚が統治システムの中心に座ってもさしつかえないと思っていた。長期金融について、戦前・戦中の考え方が連続して残っていた。

少し戻るが、憲法論争でもそうだった。46年始めにGHQが憲法改正を示唆した時、政府と主流の憲法学者は、明治憲法は良く読めば民主的な内容であるから、改正しなくても良いと判断した。驚くことに、天皇機関説を主張して貴族院議員を追われた美濃部達吉も同じ意見だった。GHQは、こうした考え方に立った政府の憲法草案を見て驚き、現在の民主憲法を突きつけた。多くの憲法学者や国会議員は、前文や9条をみて屈辱的だと感じたが、占領が終了した時に、改憲すればいいと判断して、国会を通過させた。

安本と興銀を軸とした統制経済という竹俣構想の一部は、日本開発銀行(開銀)によって実現した。49年におけるドッジライン政策とともに、援助物資を国内で販売した代金は「米国対日援助見返り資金」特別会計に計上され、その課長は興銀から派遣された。それを基金として、51年に設備資金を融資する国営銀行の開銀が設立され、開銀は巨額な融資を重要産業に集中融資した。

中山素平(当時興銀常務)が開銀理事、正宗猪早夫(後に興銀頭取)が総務部長、竹俣が審査部長と開銀の重要ポストは興銀の出向者によって占められた。同時に設立された国営の日本輸出入銀行の総裁には追放が解けた元興銀総裁の河上が就任した。興銀は国営銀行の人事を支配して、戦時中と同じように、最も重要な国策銀行にのし上がった。

興銀の調査月報は、重要産業に関するレポートによって大胆な提案を掲載した。幾つかの例をあげよう。石炭鉱業は国営化し、化学肥料は重要な産業であるが、成長性高く、収益力が期待できる民営のままがよい。機械工業は基幹産業であるから、政府は低金利資金を融資する仕組みをつくり育成する。機械工業の基礎は中小下請け企業にあるから、そこには低金利資金が供給すべきだ。

49年に「太平洋岸石油精油所」を続いて、51年には、「世界の原油需給と米国の石油産業」、掲載した。当時、中東に大油田が続々と発見された。 大型タンカーが開発されたので、日本のような大消費地に大型な精油所を建設し、中東の原油を直接に輸送できるようなった。

中東原油のコストは極端に低いから、石炭から石油へエネルギー転換が起きるだろう。それまでは、原油の供給や価格はメジャーによって支配されてきたが、中東における新油田の発見が続出すると、日本の民族系の石油精製企業が活躍する余地が生まれ、また直接に産油事業に参入できるという。なかなかの卓見である。

興銀は、その後間もなく、民族系の精製企業への融資を拡大し、また58年にはアラビア石油を援助し、エネルギー産業では強固な立場を築いた。こうして調査部の主張と重要産業の融資が巧く結びつけた。

2. 長信銀の生存メカニズム

興銀・長銀は、どのような特殊銀行であるかを述べておこう。52年に長信銀法の成立した。業務の内容は竹俣構想に似ている。当初は興銀・長銀の2行だったが、57年に日本債券信用銀行(日債銀)が加わり3行になった。興銀は日債銀の設立に協力し、20名近い行員を日債銀に出向させた。後に日債銀の頭取になり(1982~87年)、豪腕を振るった頴川史郎は興銀出身だ。興銀は、当時日債銀を系列金融機関の1つだと考えていたいようだ。

長信銀は金融債を発行し、設備資金を供給する銀行だった。金融債には利付き債と割引債の2種類があり、中心は5年満期の利付債だった。長信銀が発足と同時に目覚ましい成長を遂げたのは、この金融債を発行する特権を持ち、長期の設備資金を融資する専門銀行だったからだ。

それは戦前の興銀そっくりの特殊銀行であり、戦前の興銀が国家政策に協力して軍需産業への融資を拡大して発展したと同じように、長信銀は重要産業の育成とその国際競争力の強化という国家政策に協力して、融資を伸ばし急成長した。

当時、日本経済は高成長期だったから企業の設備投資意欲が強く、資金需要が旺盛だったが、国民の所得が低く、貯蓄が少かったので、実勢金利は高かった。長信銀の貸付金利は実勢金利よりも相当低かったから、借り入れを希望する企業が殺到した。石炭、電力、鉄鋼、海運等の重要産業の大企業を中心に長期貸し付けが飛躍的に伸びた。

貸付金利が低いのは金融債の金利が低かったからだ。都市銀行はその低金利の金融債を買った。それには複雑な原因があった。都市銀行は貸付額が預金を上回り、何時も資金不足だった。日本銀行(日銀)は、都市銀行に対して低利資金を貸し出した。そのお陰で、都市銀行は、預金量を遙かに超える資金を貸出すことができたが、その代償として日銀は都市銀行に対して融資準則を決め、不急不要な投資(例えば映画館等の娯楽施設)への融資を禁じた。

ところで、都市銀行が日銀から融資を受ける時には担保が必要であり、金融債はその担保になった。また日銀は資金市場が逼迫した時には、金融債をオペレーションの対象として買い上げた。50年代は健全財政だったから、成長通貨は金融債を担保とした日銀貸し出しや金融債の買いオペレーションによって供給された(長信銀の設立時から66年まで)。

都市銀行は金融債購入によって、つぎのようなメリットを得た。例えば都市銀行が10億円の金融債を買ったとしよう。

1. 金融債10億円に対して、当然、金利が得られる。

2. 資金が不足した時、それを担保として、日銀から約10億円の資金を借り入れ可能だったので、企業の旺盛な資金需要に応えることができた。

3. 都市銀行の資金不足が軽減された。長銀は金融債の売却によって獲得した10億円を、日本郵船に対して、船舶を購入する資金として融資したとしよう。日本郵船のメインバンクである三菱銀行は、三菱系企業の旺盛な資金需要に応じ切れない状況にある。そうした時、長信銀が日本郵船に融資すれば、それだけ三菱銀行の資金不足状態が軽くなる。

4. 都市銀行が金融債を購入するため、長銀に支払った10億円は結局、都市銀行の預金に戻ってくる。長銀は日本郵船に10億円を融資すると、日本郵船は同じ三菱グループに属する三菱重工から船舶を購入するに違いない。長銀が融資した10億円は、まず三菱銀行の日本郵船の口座に振り込まれ、日本郵船が船舶を購入した時、三菱銀行の日本郵船の口座から同じ三菱銀行の三菱重工の口座に移り、三菱銀行が長銀に支払った10億円は間もなく三菱銀行の預金に戻るのである。

5. もし長信銀制度がなかったならば、都市銀行は長期貸付債権が増え、財務内容が硬直化したはずだ。しかし、長信銀の存在によって、長期貸付債権が流動性の高い金融債に変わった。資金繰りが悪化した時には、日銀は金融債を買い上げてくれる。都市銀行の経営が非常に安定した。

こうして、長信銀は都市銀行と深い関係を保ちつつ、政府の産業政策に協力して、基幹産業の大企業との取引を拡大した。ところで、長信銀は、金融制度が変われば、たちどころに、経営が不安になる。

例えば、

1. 金融債が日銀の適格担保やオペレーションの対象から外される(1966年に外された)。

2. 金融債の発行特権を奪われ、普通銀行も発行するようになる。

3. 普通銀行が長期設備資金を融資するようになる。

4. 企業の内部留保が充実して、長期借入金が不要になる。

3. 長銀に入る。

私は、40年代後半には、旧制静高の理科にいたが、社会科学が好きになり、52年に東大・経済学部に進学した。経済学部には山田盛太郎、有沢広巳、脇村義太郎、宇野弘蔵、鈴木武雄といった遙かに仰ぎ見るような大先生がいた。戦時中に大学を追放されたこれらの教授が、いずれも、戦後、華々しく論壇で活躍した。

戦前の著作であるが、戦後直ぐ再販された山田盛太郎の「日本資本主義の分析」は漢字が並び、歯切れがよく、「インド以下的賃金」とか、「肉体消磨的労働」といった言葉で、労働者の惨状を語ったが、彼はいつも蝶ネクタイでり、先鋭のマル経学者らしくなかった。 有沢は、マル経の学者とは思われないほど頭が柔らかだった。講義では、ケインズだけではなく、成熟社会における経済計画を論じたミュルダールや、ゲームの理論を深めたモルゲンシュテルンといった50年代における最先端の経済学を紹介した。残念ながら、殆どの学生には理解できなかった。

宇野弘蔵は、研究室で質問すると、資本論の原書を持ち出して、弁護士が六法全書を使う時のように、目的の箇所をたちどころに開いて質問に答えた。しかし、「私は学生諸君のように暇ではない」と云って、すぐ追い出された。 脇村は、和歌山県の大森林地主の息子であるから、その頃では珍しいカフスボタンをして、国際石油資本やワインの話をした。

私は、進学して始めの一ヶ月ぐらいは、まるでノーベル賞学者か、マリリンモンローを見るような興奮した気持ちで授業に通った。「財政投融資の研究」というテーマの鈴木武雄ゼミに入り、スイージーやドップといったその頃流行のマル経学者の著作によって学んだ。私は友人と先生のお宅や軽井沢の別荘に伺たり、お嬢さんとコーヒーを飲んだりした。

鈴木先生は、東大を退職後、武蔵大学の学長になった。私は先生が亡くなるまで、同大学の経済学部・講師を勤めた。日下公人は同じ鈴木ゼミ生であり、報告の題は「インドの財政投融資」であり、彼のスケールの大きい空想力に驚嘆した。彼は、水泳、卓球、逆立ち、ダンス、写真と何でも巧かった。

なお、この時代に活躍した学者は、恐ろしく長命だった。脇村97才、都留94才、大内92才、有沢92才である。脇村は90才過ぎても逗子から電車で日本学士院まで通った。長命のコツは山登りだという。彼は親しい人を桜の季節に逗子の自宅に呼んだ。屋敷の庭は、そこから見える桜の山まで伸びているのだ。

私は大学を卒業する時、鈴木武雄先生と相談して長銀に決めた。先生は次の3つの理由から長銀を勧めた。1. 長銀に勤めれば、生きた日本経済を体系的に理解できること、2. 新しい銀行であり、古いしきたりがないから勤めやすいこと、3. 新銀行だから、応募者が少なく、入社が楽なことである。最後に、「君でも、しばらくは勤まるだろう」と付け加えた。私は、大学に残らないかという誘いを期待したが、そういう話しは全くなかった。

地方から来た学生は、官僚になると一生威張れる、天下りがある、恩給が高いということを知らなかった。長銀の副頭取になった根橋剛は、大学と公務員試験の成績から見て、明らかに大蔵省に入れるはずだった。彼は大蔵省の2次試験の時、昼食に行くと、局長がキツネうどんを食べていた。局長になったら、天麩羅うどんを食べられると思っていたという。これはいかん。彼は諏訪出身であるから、初任給だけを見て長銀を選んだ。官僚が親戚にいる人は、主として官僚になった。

私が54年に長銀に入行した時、新入行員に対する訓話で、倉科茂(営業部次長・後に副頭取)は、「長銀は制度銀行だから長持ちしない。転職の覚悟をしておくように」とショッキングな話しをした。同期入社の者は誰でも覚えている。実際私が長銀に勤めている間、帰りに一杯飲んだ時、直ぐに「長銀が何時まで存続できるか」という話題になった。

長信銀は金融債を銀行に売り、専ら大企業に融資していたので、人数や店舗数が極端に少なかった。規制が緩和され、自由な競争が展開されたならば、長銀は、全国に店舗を展開している都市銀行との競争に負ける。

長信銀の存続には、長信銀が日本経済の発展にとって役立つという論陣を張り、実際に政策協調的な融資を続け、役立っていることを世の中に示さなければならない。また、長信銀が長期融資に対して、充分なリスク負担能力をもっていることを広く認識させることが必要だ。

それには内外の経済や産業を調査分析して将来を見通し、かつ融資対象のプロジェクトが日本経済の成長にとって、重要な役割を果たすかどうか判断する能力が必要だ。

さらに、大蔵省や通産省が設置した審議会に参加し、政策を支持する報告書の作成に協力し、また融資先企業を説得して、政策の協力させるという合意形成の仲介役になる。それが政策に協力する銀行の証になる。こうした能力を備えるには優れた調査部が必要だ。長銀調査部は、その域に達するまで、10年の年月が必要だった。

しかし、鈴木先生が予言したように、長銀の調査部は、生きた経済を体系的に理解するには、絶好の勤め先だった。

4. 長銀調査部の発足

53年に、長銀総務部のなかに、小さな調査課が発足した。メンバーは製造業の企業から転職してきた課長、大卒の新人3名、女子新人3名だけだ。長銀の本店は九段の旧日銀図書館であり、3階建ての古い建物は天井が低く、エレベーターもなかった。夏には扇風機が回っており、書類をつくる時には、扇風機の風で吹き飛ばされないように、片手で押さえた。

調査課の部屋は屋根裏であり、まず大工に頼んで本棚を作った。部屋が狭く既製の本棚が使えないのだ。新人女子職員が勧銀の図書室に通い、図書分類やカードの作り方を習った。

長銀は酷く人手不足だった。長銀が設立された時には(52年)、社員数はわずか200名であり、大部分は日本勧業銀行(勧銀)からの転職者だった。大蔵省は興銀と競争できる銀行を創るために、創立期の長銀を手厚く支援した。長銀の資本金は半分が政府出資であり(1961年に全額消却)、設立後3年間は資金運用部が金融債の40%を購入した。初代頭取、2代目副頭取は大蔵省OBであり、以後20年近く、副頭取か専務は大蔵省OBのポストだった。

勧銀から来た働き手は、重要な部署である融資や債券の部門に配置され、調査課にまわす余裕はなかった。日本経済は昭和30年代には、年率10%の経済成長を続け、企業の資金需要は非常に旺盛だったので、融資のお客が絶えなかった。そこで、長銀は可能な限り多くの資金を集めたかった。

しかし大蔵省の強い規制によって、勝手に支店の数を増やしたり、債券金利を引き上げたりしてはならない。その上、日本銀行が毎月融資枠を指示し、それを超える貸し出しを許さなかった。それは銀行の貸し出し競争が激しくなるのを恐れたからだ。長銀の経営は大蔵省の銀行行政と日銀の窓口規制に左右されていたのだ。長銀は、調査部門をつくるより、人手を大蔵省や日銀の接待に当てて、支店の増加や融資枠の増加を陳情した方が収益の増大に役立つはずだ。

調査課は56年に調査部になり、その翌年、本店は東京駅前の東京ビルへ、61年には大手町の本店ビル移った。部員数は20名を越え、図書室には書棚が並びクーラーが設置され、銀行の調査部らしくなった。

長銀が調査部門を充実した理由は次の諸点にある。第1に長期の金融債を発行し、長期資金を融資していると、将来のリスクを予測する組織を持ちたい。判断のよりどころが欲しかったのだ。

第2には興銀だけではなく、勧銀にも負けない調査部をつくりたい。長銀の創立を担ったのは、勧銀が普通銀行に転換することを決めた時(1950年)、それに激しく反対し、債券発行銀行に止まることを主張したグループだ。副頭取の浜口巌根がそのリーダーであり、150名の男女社員を引き連れて長銀の副頭取になった。彼には一流の設備投資銀行になり、勧銀を見返してやろうという執念があった。そのためには、立派な調査部を育てなければならなかった。

第3に収益力があったので、エコノミストを育てる教育投資が可能だった。大蔵省や日銀による競争抑制政策は、長信銀に安定した収益をもたらした。標準長期金利は、大蔵省の行政指導によって、金融債の金利に0,9%を上乗せした水準に決められていた。長銀は大量な長銀債を都市銀行に販売し、ロットの大きい資金を大企業に長期融資しており、少ない人数で巨額な資金を動かしていた。利幅が大きく、かつ人件費と物件費とが低いのである。長銀は好収益の企業だった。

第4にPRである。大蔵省は銀行が激しい競争を展開することを嫌い、目立つ広告も禁止した。テレビ・ラジオのコマーシャル、ネオンサインは御法度だ。年末に配るカレンダーや手帳の大きさや枚数に制限があった。

こうした広告制限の中では、調査部は重要なPR部門だった。立派な調査を発表すれば、新聞が載せてくれる。調査部長はラジオやテレビに出演して経済を解説し、銀行名を広げた。洞察力の優れた調査部を持っている銀行は、企業にとって、取引する価値があると思われるだろう。また調査部の調査活動によって、金融債の信用力も高まるだろう。 以上

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