価値総研「Best Value」

2008年1月

復興期のエコノミスト・2

1. 復興金融金庫と興銀の救済・復活体

GHQは、1946年10月に、政府に対して戦時補償の打ち切りと戦後支払われた臨時軍事費の回収を要求した。敗戦国の政府が、戦時中の未払い金や戦時補償の支払に応じ、戦時利得者を儲けさせるのは、おかしいという考え方だった。ここで、再び銀行に危機が訪れた。と言うのは、戦時中の融資が回収できないので、インフレによって、目減りしたとは言え、債務超過の状態になりそうだったからだ。最も深刻な事態に追い込まれたのは、日本興業銀行(興銀)だった。

興銀は1902年に設立された特殊銀行であり、債券を発行して資金を集め、日露戦争後に重要となった重化学工業に長期資金を融資した。大蔵大臣の結城豊太郎が1930年に興銀総裁に就任すると(総裁は政府任命だった)、昭和不況下における大規模な救済融資を行って急成長し、さらに2次大戦中には、軍事産業に対して巨額な融資を展開した。

銀行は軍事産業融資を嫌うものだ。というのは、軍事産業の企業は戦争が終わると、一挙に不況に落ち込むので、不良債権を生みやすいからだ。ところが、興銀は国策銀行だったので、最大の航空機製造会社である中島飛行機を始め、新興の軍事産業に対する長期設備資金の融資を拡大して巨大銀行に成長した。1939年から45年間で、普通銀行の融資額は約8倍に増えたが、興銀は実に37倍になった。財閥銀行は危険な長期融資を興銀に押しつけたと云えよう。興銀の中に、臨時資金金融部がつくられ、政府の命令融資に機動的に応じた。

戦時中には、興銀は軍部と一体になって東南アジアへの進出を始めた。中山素平(後の興銀会長)は、1年間シンガポールに駐在して、興銀の調査団25名を率いて、占領地における土地・建物の資産評価を行い、またゴム園や金属鉱山等、敵国から没収した資産の再建計画を立てた。

敗戦とともに、興銀には巨額な損失が発生した。しかし人材が揃っていた。河上弘一は、1940年から敗戦の時まで総裁だった。彼は戦時中に軍部や大蔵省との間に立って大きな融資案件をまとめ、また中島飛行機への大型融資の過程で、当時第1銀行頭取だった渋沢敬三(戦時中は日銀総裁、敗戦直後は大蔵大臣)と親密になった。彼は戦前に3年間も留学し、英語を自由に操れるから、直接にGHQの金融財政部門の責任者と絶えず話し合い、接待を重ねて、敗戦後の日本経済にとって、産業金融専門の銀行の必要性について説得した。(彼は公職追放を予想して、46年2月辞任した)。

興銀は、戦時中に長期の設備資を融資したので、産業金融に関するノウハウが厚く蓄積されており、調査部・企画部が全力を挙げて、GHQに対する説明資料を作成したという。

渋沢は産業金融専門銀行の必要性を認識していた。戦時補償の打ち切りが決まる2ヶ月前に(46年8月)、政府は興銀が受ける打撃を軽減し、かつ重要産業に対して、設備投資、在庫投資、人員整理等に必要な長期資金を融資する特別会計をつくった。

興銀の内部に、復興金融部がつくられ、復興金融特別会計の融資事務を引き受けた。融資方針は毎月開かれる大蔵次官を委員長とする復興金融委員会で決められた。委員13名のうち、2名が興銀役員だった。興銀は破綻寸前であり、かつ戦争責任を問われるべき特殊銀行だったが、逆に、日本経済の再建を担う重要産業銀行に生まれ変わった。興銀スタッフの産業金融の必要性についての理論構成と、トップの見事な交渉力の成果だった。

吉田内閣が生まれ(1946年5月)、石橋大蔵大臣は、経済再建のためにケインズ政策を実施した。それに必要な金融機関として、1947年2月に、興銀の復興金融部を母体として、復興金融金庫(復金)をつくった。工藤昭四郎は、経済安定本部に出向して第五部長に就任していたが、復金の副理事長になり、五〇年には理事長になった。

資金は復興金融債券の発行により、日銀がその全額引き受けた。その結果、年間で消費者物価が6倍になるという大インフレが発生した。このインフレによって、興銀は、巨額な不良債権が瞬く間に減価し、23年には大型増資を行って、長期資金専門銀行として立ち直った。
なお、この時に大蔵大臣は前興銀総裁の来栖赳夫だった。GHQとの巧みな交渉や大蔵大臣を送れる政治的実力が、興銀再建の要因だった。

2. 吉田茂の学者・エコノミスト好み

吉田茂は親英米・反ファシスト主義であり、また貴族的精神の持ち主だったので、日本再建には、知的エリートが愚衆をリードすべきだと信じていた。

組閣では、大蔵大臣は石橋湛山だった。吉田は、彼が2ヶ月前の総選挙で落選したにも拘わらず、エコノミストとしての実力と胆力を評価した。石橋の配下には事務次官・池田勇人、主計局・野田卯一、主税局長・前尾繁三郎、銀行局長・福田赳夫、官房長・愛知揆一という粒ぞろいであり、何れも後に政治家になって、派閥のリーダーや準リーダーになり、首相や重要な大臣ポストを歴任した。

文部大臣に田中耕太郎を据えた。彼は東京大学法学部教授であり、軍部を批判したカソリック信者だ。太平洋戦争は日本人の倫理欠如の結果起きたという信念を持ち、教育改革の熱意に燃えていた。後に最高裁長官、ハーグの国際司法裁判所判事になった。

吉田は、当初、マルクス経済学者の大内兵衛を大蔵大臣に、東畑精一を農林大臣に任命しようと熱心の交渉したが、両人とも学者でいたいと拒否された。

大内が大臣を断った翌日、東大の教室に入ると、講義に集まった学生は割れるような拍手によって迎えた。それは、大内が大臣のポストを振り、東大教授を選んだことに対する賞賛の拍手だった。竹中平蔵氏は、進んで小泉内閣の国務大臣になり、慶応大学の学生は喜んで送った。教授や学生の気質が変わったものだ。

農林大臣は和田博雄が就任した。和田は戦時中、経済計画を立案する官庁である企画院に勤めていたが、マルクス主義の研究会に属していたという理由で、治安維持法違反にとわれて逮捕された。彼は俳人としても有名であり、「冬夜の駅」とい句集がある。句会に赴く途中、芝公園沿いの道の脇の草むらで死んだ。気持ちが悪くなった時、路上で大の字なれば、誰かが発見したかもしれない。彼らしく遠慮して草むらにしゃがみ込んだと言われた。

吉田は強烈な反共主義者であり、天皇崇拝者だったが、大内や和田を好んだのは、反軍事政権を貫いた知的エリートの仲間意識があったからに違いない。結局、彼は敗戦まで無傷で残ったエリートを巧く使った。

3. 有沢教授の傾斜生産方式

石山湛山がインフレに苦しんでいる時、吉田首相は、好みの学者・エコノミストを集めて、経済政策に関する顧問会議を開き、彼等の議論を聞くのを楽しみにしていた。議論の中心は、自然に石炭問題に移った。1946年11月に、この会議を石炭委員会という公式の政府委員会にした。委員長は有沢広巳、稲葉秀三、都留重人、吉野俊彦、佐藤尚武、大島寛一の6名だった。

稲葉は京大の文学部哲学科と東大経済学部を卒業して企画院に勤め、和田博雄とともに、企画院事件で逮捕された。彼は敗戦後から1960年頃にかけて、日本を代表するエコノミストだった。民間初のシンクタンク国民経済協会会長や産経新聞副社長や社会経済国民会議議長などを務めた。国民経済協会からは、山田亮三、名島太郎、竹中一雄、富塚文太郎、井波卓三、力石定一、三輪芳郎、伊木誠、田中直樹、叶芳和 壱岐晃才 鶴田俊正等数え切れい程多くの学者・エコノミストが育った。国民経済協会はエコノミストの泉だった。

都留は旧制第八高校の時、マルクス主義研究グループのメンバーだったので、治安維持法によって逮捕され、3ヶ月留置された後、退学処分を受けた。渡米して一九三五年にハーバード大学を卒業し、そのまま講師になった。戦時中に、日米の在留人交換船で帰国した。

アメリカではスイージー等のマルクス主義者の他、サミエルソン、ソロー、ガルブレイス等の大学者と親交を深めた。彼はシュンペーターに師事して博士号をとった。佐藤は商工省、大島は大蔵省の幹部だった。
小泉首相は学者・エコノミストを集め、意見を聞き、政策に取り入れた。石炭委員会のメンバーは、学識の高さ(当時のレベルからみた)、信念の強さ、人格の高潔さ等からみて、竹中ブレーンとは、勝るとも、決して劣らなかった。激しい思想弾圧や戦場・空爆の体験が人物を育てた。

有沢は、一九四六年11月に、「インフレーションと社会化」という有名な論文を発表した。その中で次のように述べている。消費財の生産は伸びたが、それは生産財・資本財を食いつぶしているから可能になった。鉄道や発電所では石炭不足だ。石炭鉱山では鋼材が不足している。限られた資源は、まず石炭生産に集中すべきだ。インフレが進行しても、石炭生産が増えれば、間もなく、日本経済全体の供給力が増加するから、インフレが止まるという主張だった。

石炭生産を増やすためには、まず鉄鋼が必要であり、鉄鋼生産を増やすためには、石炭が必要だ。石炭委員会は、この2つの産業に資源、労働力、資金を優先的に配分するという「傾斜生産方式」という政策を決めた。閣議で目標値3000万トン(戦時中は5000万トンを生産)が承認された。

まずはGHQと交渉して重油15万トンを輸入した。それによって鋼材をつくり、その鋼材が石炭鉱山の改修に投入された。当時、コメが大人1人2,5合の配給制であったが、炭鉱労働者には、腹がへらないように6合、その家族は1人3,5合と優遇された。NHKは、毎週木曜日の8時からのゴールデンタイムに「炭坑に送る夕べ」を放送し、街頭には出炭量がコメの供出量と並んで、大きく掲示された。
「傾斜生産方式」の政策手段は、復興金融公庫による集中融資と価格差補給金だった。

日銀引き受けによる複金債の発行が続いた。鉄鋼や石炭は公定価格で販売され、コスト割れは価格差補給金によって補填された。価格差補給金によって財政赤字はさらに拡大し、日銀引き受けの国債発行がさらに増えて、インフレが加速した。

4. 新進エコノミストの群れ

社会党の片山首相の連立内閣が、1947年6月に発足した。国民が飢え、経済が危機にあるから、兎に角、基礎物資の供給量を増やさなければならい。石炭、鉄鋼の次には、コメの生産量を増やす肥料が必要であり、肥料の生産には電力がいる。片山内閣は、経済計画に力を入れた。

経済計画の拠点は経済安定本部(安本)だった。GHQは、政府の各省に分散していた経済行政を一カ所に集中して、機能の向上を求めた。片山内閣は、早速、10の局を持ち、職員数2000人の巨大官庁をつくった。

それは物資、資金、物価、労働に関する総合計画を立て、また生産資材や食料の配給、物価政策の策定など、経済計画を企画・実施する官庁だ。日本経済の生死を握る重要な機関であるから、民間企業、満鉄調査部、官庁、学会から一流の人材が集められた。大内、有沢、中山等の学者が、教え子に働きかけたに違いない。これは、メンバーはまばゆいばかりの人材だった。戦時中に、戦場に動員されず、国内に温存されたエリートは総動員され、それに海外からの引き上げ組が加わった。

長官は和田博雄、秘書官は勝間田精一だ。勝間田は和田とともに企画院事件で逮捕された。局長・課長クラスは、都留重人、長野重雄、稲葉秀三、下村治、大川一司、工藤昭四郎、大来佐武郎等であり、ヒラの職員には、後藤誉之助、向坂正雄、宍戸寿男、宮崎勇、矢野智雄、宮下武平、小島英敏、小島正興等がいた。

これらの人達は、後に政治家、学者エコノミスト、経営者として一世を風靡した。最終のポストは次の通りだ。

和田博雄ー左派社会党委員長。
勝間田精一ー社会党委員長。
都留重人ー一橋大学学長。
永野重雄ー新日鐵会長、日本商工会議所の会頭。
稲葉秀三ー産経新聞副社長
下村治ー下村理論で有名。天才と言われる。 大蔵省出身。
大川一司ー統計学の大家、一橋大学教授
工藤昭四郎ー都民銀行頭取、興銀出身
大来佐武郎ー外務大臣
後藤誉之助ー代表的な官庁エコノミスト。
平田敬一ー大蔵省次官
谷村祐ー大蔵省次官
小倉武一ー農林省次官
向坂正雄ー経済企画庁総合計画局長。日本 エネルーぎー研究所 理事長、
宍戸寿男ー経済企画庁調査局長。
宮崎勇ー経済企画庁長官。
矢野智雄ー経済企画庁次官。
小島英敏ー経済企画庁次官。
小島正興ーセコム副会長。
宮下武平ー産業論に大家、立正大学教授

このメンバーは若かった。トップの和田は45才、続く稲葉、都留はそれぞれ、40才と35才である。大来は32才だった。その他の大部分のメンバーは20才代である。

まるで明治政府が発足した時のような若々しさだ。明治政府の中軸を担った人には、松下村塾と鹿児島藩の下加治屋町・郷中からでた。前者の代表は伊藤博文、山県有朋、前原一誠であり、後者の代表は西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎である。彼等は小さな町内が一斉に育った。安本はその町内に似ている。危機意識とナショナリズムに燃えている人の中にいると、人間は育つのである。

安本の若者達は、戦時中に、経済の研究ができなかったので、知的に飢えた状態だった。また日本は、アメリカの物量に負けたことがはっきり判った。進駐してきたアメリカ兵は、がっしりした骨格が隆々たる筋肉で覆われていた。それに比べて、旧日本兵は何と背が低く、やせ細っていることか。

彼等が乗り回しているジープは、車体の鉄鋼が太く厚く、厳めしかった。幅が広い分厚いタイヤには、深々とした溝が刻まれている。
それは急峻な坂を易々と登っていく。

若いエコノミストにとって、仕事の目的は余りにもはっきりしていた。まず国民を飢えから救うことであり、ついで基礎産業を再建し、アメリカ経済にキャッチアップすることだ。

良い経済計画を作成すれば、その道が開ける。身震いするような、やり甲斐のある仕事だ。彼等は、深夜まで働き続け、絶え間なく議論した。

5. 

都留は47年7月に第1回経済白書を書いた。それは、ろくな統計資料がない中で、いかにもアメリカ帰りらしく、ケインズ経済学によったマクロ経済分析を使った。国家も企業も家計もすべて赤字であって、資産を食いつぶしている。人間で云えば、血液に毒が入り、体中を廻り、やせ細っていくようなものだ。

縮小再生産から抜け出すには、傾斜生産方式しかない。瀕死の国家を再建するために、日本人は一体となって頑張ろうというのだ。分析と政策と愛国心が一体となった名白書である。彼は白書の原稿を自ら英訳し、GHQの許可を取った。GHQは反占領軍的な内容を恐れ、事前検閲を要求した。

傾斜生産方式は軌道に乗り、48年から基礎物資の生産量が増え、物価上昇率はかなり低くなった。有沢は生産が戦前の60%の水準も戻ったら、インフレを一挙に収束させるべきだと主張した。そのために、デフレになるのはやむを得ない。物価が安定すれば、市場原理が働き、生産、流通、貿易が拡大するはずだ。朝鮮の京城帝国大学から引き上げてきた鈴木武雄(後に東大教授)も、一挙安定論を強く支持した。

これに対して、稲葉は、国も企業も家計も赤字だ。その上、インフラは老朽化している。物価安定を急ぐとデフレに襲われる。緩やかなペースで安定に向かうべきだという。安本の大勢はこの中間安定論だった。

1949年には、GHQは、デトロイト銀行のドッジ頭取を顧問として招聘して、日本政府に対して、「超均衡財政」による一挙的な「安定政策」の実施を要求し、ま360円の為替レートを定めた。日本経済は深刻なデフレに突入したが、1950年には、朝鮮戦争による「特需」が発生して再建の軌道に乗り、有沢が期待したような市場経済が完全に機能する経済になった。経済成長政策が成り立つ基盤ができた。

また長期な展望については、有沢、都留は国内市場の開発が重要である。製造業の技術水準を高め賃金を引き上げ、内需主導型の成長を遂げれば、再び、植民地を求めるようなことはない。

これに対して、中山伊知郎は日本には天然資源が少ないから、貿易によって生きる方がよい。海外市場を含めると、市場の規模は拡大し、規模の利益が働き、強い製造業が生まれると考えた。60年以降の日本経済ををみると、中山が描いたようになった。

ロンドンエコノミスト誌は、1962年秋発行の特集号「驚くべき日本」で、ドッジ政策について、次のように述べている。

「ドッジはアメリカに帰り、デトロイト銀行の机に前に座って、必ず起きるはずの日本経済の崩壊を待った。それから10年、日本はドッジが厳しく戒め、反対したまさにその政策を採り続けた。その結果、GNPは年率9%」で伸び、工業生産は4倍に増え、・・・・・・平均寿命は10年も延びた。これまでの世界の歴史に中で、最も驚くべき、異常な躍進だった。」(鈴木武雄著「お金の話」)

安本に集まったエコノミストが、経済成長政策を志した結果、ドッジの期待を裏切ることができた。 以上

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