価値総研「Best Value」

2006年7月

楽な社会主義と苦しい市場経済

貧しいソ連と豊かなロシア

世界の政治・経済秩序が大きく変わりつつある。それを象徴しているのは、ロシア経済の動きだ。ロシアは2000年以後高成長を続け、物不足の貧しい国から、物が溢れる豊かな国に変わった。

ソ連時代の旅行は、まるで探検旅行のように不便であり、また忍耐力が必要だった。モスクワの一流ホテルでも、同じタイプの狭い部屋ばかりだ。夜、チェックインすると、暗い電球が、薄い毛布の小型ベッドと貧弱な机をぼんやり照らしている。窓のカーテンの幅が狭いので、夏には、夜遅くまで、昼のように明るく寝付けない。

シベリヤやサハリンの都市では、水道の水は赤く、トイレは、その当時の中国と同じように不潔極まりなかった。郊外には大きな蝿と蚊が溢れていた。飛行場の建物はまるで掘っ立て小屋であり、冬には、乗客は吹き晒しの飛行場を歩き、タラップの前で、長い時間、パイロットとスチュワーデスが来るのを待たなければならない。労働者の国であるから、乗客より労働者が優先された。私達は太った女性の風下に立って、寒さをこらえたものだ。

面倒くさがり屋にとっては、ソ連旅行は気楽だったに違いない。何しろ国営の旅行会社が泊まるホテルからタクシーまで決めてくれる。レストランでは、メニューに書かれている飲み物や料理の大部分が品切れであり、結局1~2種類しかない。ビールや葡萄酒は不味くて飲めない。汽車弁では太いキュウリ一本と乾燥した肉の塊とパンであって、何れも固くて歯が欠けそうだ。モスクワの小売店でも、店内は暗く、僅かな品物が並べられているだけだ。

結局、食事も選択の余地がなく、何処に行っても土産になる品物は見付からない。旅行者は、少しでも楽しい旅行をしようと努力しても無駄だ。のんびりと社会主義国家の不便さと自然の豊かさを堪能できるのである。

ところが、今や、すべてが一変した。誰でも驚嘆するのは、モスクワにおける巨大なショッピング・センターの出現だ。その中にはスーパー、専門店群、映画館等があり、そのスーパーの広さは多分世界一だろう。出口には100台近くのレジが並び、向こうが霞んで見える程だ。一万台の駐車場があり、日曜日には、周辺の道路は大渋滞になり、現在、3つ目の巨大ショッピングセンターが建設されつつある。

赤の広場近くある有名なデパートのグムは、ソ連時代には、貧弱な商品と店内に拡がる生活汚水の匂いが特徴だったが、今や日本橋の三越より豪華であって世界ブランドが並んでいる。高級食料店のエリセーエフスキーも帝政ロシア時代の豪華さが復活した。天井のシャンデリアが輝き、壁には絵画が描かれ、まるで宮殿のようだ。品揃えの豊富さは東京・青山の紀伊国屋でも敵わない。

またモスクワやサンクト・ペテルブルグには到るところに小型スーパーがあり、品物が溢れている。サンクト・ペテルブルグは実に美しい都市であり、ネバ川越しに見たエルミタージュ宮殿の景観は芸術的であるが、ここでも大型ショッピングセンターが建設された。

モスクワ・サンクト・ペテルブルグ間は、1000キロを5時間で走る特急列車がある。その列車には食堂車があり、またワイン、スープ、料理を座席まで配達してくれる。ワインも料理も不味いが、かってと較べると、夢のようなサービスの向上である。

輸入品による豊かさ

ロシアが豊かになったのは、石油や天然ガスの輸出量が増え、かつその価格が急上昇したからだ。ロシアはエネルギー大国であって、

原油の埋蔵量は世界の5%、天然ガスは30%を占め、現在、原油の生産量はサウジアラビアについで世界2位であり、また天然ガスは、アメリカを押さえてトップにある。

輸出額は05年には約2500億ドルになり、原油、石油製品、天然ガスの3品目がその60%以上を占めている。輸出が伸びた結果、貿易収支の黒字額は1200億ドルになり、外貨準備額は2500億ドルに達し、外貨準備大国である中国や日本の3分の1に迫り、世界第3位である。

また産油企業に対する課税額は原油価格の上昇とともに重くなるという税制を実施したため、財政収入が激増し、財政収支の黒字が拡大した。この過程で、エネルギー資源の掘削やパイプラインの建設部門で投資が進み、また政府は増大した税収を公共事業に投入したので、道路が整備され、住環境が目立って改善した。

ところが、産業構造の中核である製造業はあまり伸びなかった。その理由は、貿易収支の黒字の増加に伴って、ルーブルの実質為替レートが上昇し続けたことにある。経済成長とともに消費ブームが発生し、消費者物価が急上昇した。それにも拘わらず、ルーブルのレートは貿易黒字が累増した結果、2000年以降では1ドル・28~35ドルの間で推移した。

つまり、物価と賃金が急上昇したにも拘わらず、為替レートがあまり変わらなかったのである。その結果、国内産業は、コスト高になって輸出競争力を失い、工業製品の輸入が増加の一途を辿った。そもそも、90年代の前半から半ばにかけて、ソ連邦の崩壊と市場経済への移行に伴う混乱によって、製造業はかなり大きな打撃を受けていた。

最近になって、製造業がいくらか盛り返したのは、中近東で政治不安が高まり、南米で反米政権が続々と誕生した結果、パレスチナ、イラン、ベネゼラ等に武器輸出が伸び、武器産業に活気が戻ったからだ。ロシアの武器は技術水準が高く、国際競争力が充分強い。ところが、武器輸出が伸びると、ルーブルの実質レートが上昇し、武器産業以外の産業の国際競争力は一層低下するという問題が残されている。

実際、モスクワやサンクト・ペテルブルグのデパートやショッピング・センターから安物マーケットまで、家電製品、衣類、日用雑貨、果物等ほとんどすべて輸入品である。高級品・中級品はヨーロッパから、また下級品は中国・トルコからの輸入だ。

産業の中で成長しているのは、エネルギー関連企業、建設業、輸入関連の流通業、小売り、武器産業ぐらいであり、実に変形した産業構造が形成された。

これらの産業では雇用が拡大し、また利益が大きかったので、ニューリッチ階層が現れた。彼等の一部はモスクワ郊外に帝政ロシア時代の貴族や、ソ連時代における共産党の大幹部のような豪邸に住み、また、そうした豪邸が並ぶ高級住宅地には、世界の一流ブランド店が軒を連ね、ロシア正教の堂々たる教会がある。

中産階級も増えた。彼等は都市住民の約30%を占め、100ヘーベを越す広い新築マンションに住み、自動車を持ち、デパートやショッピングセンターで買い物をしている。日本車の中古品は性能がよいから、人気を集めている。実際に動いている自動車の中に占める国産車の比率は、遂に50%を割り、その結果、モスクワの空気がきれいになったという。

コーカサス等貧しい地域からの出稼ぎ者が下級品の流通(担ぎ屋)や安物マーケットで働き、都市の下層階級を形成しており、彼等にはイスラム教徒が多い。貧困層は、この他に、年金生活者と学者・研究者がいる。年金生活者は、全人口の30%近くを占め、年金が長期間の消費者物価の上昇によってすっかり目減りしたので、やっと住宅費を賄える程度という苦しい状態だ。最近、電気や水道等生活インフラの使用料が上昇したので困窮度が増す一方だ。市場経済のもとでは、誰も救ってくれない。学者・研究者は国家体制が変わり研究費を自ら稼がなければならない。研究者の中には、研究所に出勤せず、アルバイトに励んでいる人が多い。

理想の共産主義社会

ロシアで、ソ連以降、トップの座を占めた人で、評判の悪さのランキングは、スターリン、フルチショフ、レーニン、ゴルバチョフ、エリチィンの順であり、プレジネフとプーティンは良くいう人が多い。この順序はロシア人の生活感覚を良く現している。

スターリンは大規模な粛正・銃殺と強制移住・強制労働を行った人だ。フルチショフは、キューバ基地の撤去等ソ連の威信を落とした。レーニンは、ドイツから資金援助を受け、政権奪取のために祖国を売った。

ゴルバチョフはソ連邦解体を解体した。ウクライナやウズベキスタン等が独立した結果、整然たる分業体制が寸断され、ロシアの経済力が一挙に没落した。エリチィンは、急激な市場化政策(いわゆるショック療法)に失敗して、ロシア経済を大混乱に陥れた。また、国有企業や国有財産の民営化という名目で、その株式の大半を共産党や国営企業の幹部とか友人に譲渡し、汚職・腐敗を広げた張本人だ。

これに対して、プレジネフの時代(1967年~82年)には、理想的な共産主義が実現した住みよい時代だったという人が少なくない。特に、年金生活者がそうである。プレジネフ時代は、フルチショフとは反対に思想を統制し、アメリカと強い対決姿勢をとり、さらにアフガニスタンに出兵し、経済は低迷を続けたので、暗いという印象が強い。

それにも拘わらず、彼の時代が懐かしがられるは何故か。それはソ連が真に社会主義国らしい国になっていたからだ。国有企業の間には競争がなかった。企業は計画経済に基づいて、監督官庁が決定したノルマを達成しなければならない。企業の責任者は、まず、監督官庁に対してノルマを少なくするように工作・交渉し、つぎに、そのために必要な原材料を多めに確保しておく。

工場や農場では、決められた手順で仕事をすればよかった。ノルマは実際の生産能力より低く決められている。もし、努力してノルマ以上を生産すれば、翌年からノルマが増大し、もし、品質を改善すれば翌年から作業が複雑になるだけだ。査定がなく賃金が平等であるから、工夫をしたり、余計なことは考えない方がいい。

職場の仲間は出世競争の相手ではなく、ノルマを誤魔化し、原材料を多めに手当てし、余った物は横流しする血の通った仲間である。

全員に住宅が貸与された。それは1~2部屋であって狭く、かつ炊事場、トイレ、シャワーが4~5世帯で共同使用である。しかし、家賃は電気や水道の料金込みで、賃金の約7%という安さであり、定年後もずっと住める。託児所、義務教育、病院は無料であり、老後は年金で生活できる。一生懸命に働かなくても、最低生活は保障されていた。

ウイークエンドは、郊外のダーチェ(別荘)に出掛ける。別荘といっても、掘っ立て小屋のような貧弱な建物であるが、その庭で野菜や馬鈴薯を育てて、食糧不足をカバーしていた。物質的な貧しさを苦にせず、何も考えずに、ぼんやりと一生をを過したいという人には、社会主義は理想的な社会であり、プレジネフ時代には、それが実現された。

私は、1990年頃モスクワで新計画経済会議の議長を訪ねたことがある。彼から新5カ年計画の考え方を聞こうと思った。「忙しいから8時半に来い」という。彼は大きな議長室に向かい入れ、別室で自らコーヒーを湧かし、書類をコピーしてくれた。

「秘書はいないのか」と尋ねると、「秘書は9時過ぎにに出勤して、10時にならないと、コーヒーを入れてくれない。この国は社会主義だから、勤労者の権利がしっかり守られている。そこが問題です」と、シニカルな笑みを浮かべて答えた。

ソ連時代には、しばしばアジア諸国から、学者や労働者代表がナホトカ等のシベリアの都市に集まって、「アジア情勢と社会主義政権の展望」といったテーマで4~5日間ぐらいのシンポジュームが開かれたものだ。こうしたシンポジュームでは、毎日のプログラムは、当日の朝になってやっと事務所に張り出される。主催者にとっては重要なのは、シンポジュームにスピーカーとして参加するソ連指導部の大物の都合であり、シンポジュームの成果はどうでもいいことなのだ。

アジアからの参加者は、帰りにモスクワ廻りで、長い期間かけてソ連各地を見物する。彼等には、効率という考え方がまるでなく、兎に角ソ連主催のシンポジュームへの参加旅行が重要だった。

市場経済化という革命

ところが、市場経済に変わると、のんびりと過ごすことができない。勤労者は、毎日必ず定刻に出勤し、定時まで脇目もふらずに働き続けなければならない。企業は内外の競争に晒されるから、経営者が経営方針を誤ったり、また生産性が向上しなかったならば、企業は倒産に追い込まれ、従業員は失業するに違いない。

事務系の従業員(サラリーマン)は、働きが悪ければ、容赦なく同僚との賃金やプロモーションの格差が付くので、否応なしに、朝早くから夜遅くまで、熱心に働かざるを得ない。社会主義経済と違って、何時も、工夫しながら、長時間働き続けなければならない。うかうかしていると、同僚が出世して豊かになっているのに、自分は変化に追いつけず転職し、遂に貧しい孤独な生活に落ち込むかもしれない。

もともと、市場経済では、浮き沈みが激しい。幸いにも、時流の変化や技術進歩の方向に鋭い感覚を持ち、かつ経営力に秀でた人はベンチャー企業を起こし、成功すれば短期間で巨万の富を稼ぐことができる。しかし、失敗した場合には、最低生活に転落する可能性がある。

市場経済になったロシアで大成功して富豪になった人達の多くは、決して、正当な方法でそうなったわけではない。彼等は国有企業の民営化の時、巧く立ち回った。ゴルバチョフ政権の時、まず、協同組合の設立と営業の自由化が認められた。その際に巨額な利益を上げた例がある。国有企業の従業員は何人かで協同組合を作って、国有企業から製品を安く仕入れ、数倍の価格で売り、その利益は企業の幹部で山分けした。

ゴルバチョフ政権の末期に、公営企業が民営化された。民営化のために、私有化証券が従業員等に配布された。折から、激しいインフレが発生していたので、私有化証券の額面は目減りし、多くの人は2足3文で売ってしまった。目先の利いた人は、それを買い集めて、新しく発足した民営企業の支配権を握り、やがて富豪になった。

また、国有企業や共産党の幹部がそのまま新民営企業の幹部に居座った場合も多かった。ソ連時代には日用品以外は私有財産がなかったので、自分の住宅や自動車等は国有財産であるにも拘わらず、私有物のような気がし、また世間でもそう認めていた。高額な国有財産が何の抵抗もなく党幹部のものになった。

目敏い人は、例えば、日本の中古車を安く輸入して、莫大な利益を上げた。

ぼんやり暮らしたり、生真面目だったりした人、つまり社会主義国に相応しい人達は90年代始めの大インフレとその直後のIMF大不況によって最低生活に追いやられ、その後気が抜けない市場経済の中に置かれて、戸惑うばかりだ。国民の過半数がそうである。彼等は憤懣やる方ない。

市場経済の社会は才能やチャンスに恵まれた人にとっては素晴らしい社会であるが、社会主義経済に慣れきった人がいきなりに市場経済社会に投げ出されると、死ぬほど辛いものだ。生活環境の激変、権力者の不正・汚職に耐えられず、自殺、麻薬、アルコールに走る人が増えた。

平均寿命は過去10年間で64才から59才に短縮し、出生率は2,1人から1,3人に激減した。このままの状態で推移すると、2050年の人口は、現在の1億5000万人から1億1000万人になる。

ソ連では、1914年から21年にかけて、社会主義革命、第1次大戦、内戦で数百万人が、また2次大戦では2000万人以上がそれぞれ死んだ。それにも拘わらず、人口が増加傾向を続けた。ところが、人口の増加率が高い南部のイスラム圏が独立した上に、出生率も平均寿命も低下した。

社会主義経済に慣れたロシア人が、市場経済に転換するのは、暴力革命によって社会主義に変わった時と同じように大きな社会変革だった。社会主義革命の時には、不満分子が100万人粛正され、1000万人がシベリア送りになった。現在の変革では、不満分子は自殺・麻薬・アル中と出生率低下に追い込まれている。

評価が高いプーチン

ゴルバチョフは、無謀にも、私有権という概念がなかった国で、自由化政策を実施したので、一部の権力者は堂々と国有財産を私有化してしまった。彼はそうした不正をKGBの力によって統制できると思ったが、すでに、人権思想が拡がっており、それは不可能だった。

エリツィンは経済オンチといわれ、アメリカ系の経済学者やIMFの意見を易々と受け容れて、無謀な「ショック療法」実施した結果、インフレがさらに加速してしまった。つぎにIMFの勧告にしたがって、強烈な引き締め政策を実施して、大不況を発生させ、この過程で腐敗は進み、豊かな人は一層豊かに、貧しい人は一層貧しくなった。アメリカに手玉に取られたといえよう。

プーチンは不正や腐敗を巧みに取り締まった。もし、厳しく取り締まると、大企業の幹部を大勢逮捕することになるから、経済活動が止まってしまう。そこで、不正が目に余る非道さであったり、また腐敗撲滅という政府の姿勢に対して反抗的な言動が目立ったりした時、取り締まるいうやり方をした。大手石油会社のユコスのボドルコフスキー社長は、反政府的な姿勢が目立った時、過去の不正をつかれて逮捕された。

彼は、高い経済成長を保ちながら、不正・腐敗を徐々に排除し、かつ政府権力の強さを国民に認めさせた。彼はアメリカの学者やIMFが主張するような無防備な自由化政策を嫌った。ロシアは大国であり、世界最高のロケット技術や宇宙開発技術を持っている。不足しているのは、大量生産技術、高度金融技術、効率的な流通技術などであり、それらの技術を向上させるために、外資を導入した。しかし、基幹産業で外資が圧倒的な地位を占めるのは避けたい。

ロシア経済にとって重要なことは、しっかりした法制度を作り、経済システムに信用をあたえることだ。また製造業を強くするためには、日本のように大型の政府金融機関をつくり、強力な産業政策を実施しなければならない。現在のところ、ロシアはエネルギー輸出を抑えて、ルーブル高を止め、製造業を育成したいところだ。エネルギー産業では、国有企業のウエイトを高めているが、それはエネルギー供給力を経済外交にも使うためだろう。

アメリカは、市場経済と人権を武器に、ロシア経済に対する影響力を強め、将来は世界経済をアメリカ的な市場経済にしたいと願っている。しかし最近のソ連や中国の姿勢は、アメリカの期待から離れつつある。その理由は、まず社会主義経済から市場経済に移るのは、革命と同じような大きな摩擦を伴うことだ。つぎに市場経済の担い手として、旧い権力者達が重要な役割を持っていることである。彼等が国営企業や国有資産を収奪して、それを本源的資本の形成に役立てたので、その影響力は長く残りそうだ。

最後に、世界には歴史的、地勢的に、独裁政権を必要とする国がある。中国は多湿、草原、砂漠、高山の地域から成り立ち、13億人の多民族国家である。ロシアはほぼ農奴制から社会主義に移行した国であり、独立した個人の自覚を持っている人が少ない。その上、北極からシベリアまで、国内で時差が6時間もある巨大な国だ。いずれも、統一国家であることが難しい。現在のような賢い独裁的な政権による市場経済の方が、早く豊かな社会を造れそうだ。インドもアメリカ的民主主義や市場経済は無理だ。

それどころか、ロシアや中国は、アメリカに対して市場経済原理と人権思想という衣を着て、経済力を拡大しようとしていると考え、反撃が強まっている。ロシアは、エネルギー輸出や外貨準備の一部をユーロ建てやユーロ資産に変えつつある。この傾向が強まれば、ドルの地位が低下するだろう。

また、ロシアは、ルーブルの信用が高まったので、ソ連に属していた国々に対してはまずエネルギー取引をルーブル建てにしたい。これが一般の取引にも拡大すればルーブル圏をつくれる。

ロシアや中国が市場経済化とともに、アメリカ的な民主国家になるという期待はそもそも無理だった。最近はアメリカの国際的孤立が目立っている。

ページのトップへ