価値総研「Best Value」

2007年10月

復興期のエコノミスト

1. 敗戦と日本の解体

第2次大戦によって、軍人・軍属が200万人、民間人が100万人、合計300万人が死亡して人口の4%が失われた。国富の25%、船舶の80%が消えた。119の都市が焼夷弾攻撃を受けて焼け野原になり、900万人の市民が難民のような生活を送った。そこへ、約600万人が植民地や戦場から引き上げてきた。

敗戦とともに、古い日本の秩序は音を立てて崩れた。占領軍20万人は全国の重要都市に配置された。国内では、東条英機を始めとして首脳部39名が逮捕されて7名が絞首刑になり、戦場の軍事裁判では966名が死刑になった。

天皇が「人間宣言」によって神から人間に戻り、政財界の幹部は公職を追われた。最大政党の進歩党は国会議員の殆どすべてが追放され壊滅した。中央官庁の局長以上、大会社・大銀行の幹部、市町村長等合計20万人が追放された。

4大財閥と84の大企業が解体された。GHQはすべての大企業を弱小企業に分解するつもりだった。その上に、言論統制があった。 ラジオ(当時はNHKのラジオしかない)、新聞、雑誌は検閲を受け、占領軍批判や旧軍部擁護の放送や記事は勿論のこと、仇討ちのドラマや小説も忠臣蔵も禁止である。個人の信書はしばしば開封・チェックされた。

大都市の繁華街は悲惨な光景だった。軍が隠匿していた衣類や食料を売る露天の市がひしめき合い、薄汚い軍服を着た帰国軍人が運び屋になり、所々で、戦災孤児が物貰いをし、掘っ立て小屋から流出する生活汚水の臭いが、辺り一面に漂っていた。占領軍の栄養豊かな兵士は、そうした中を、厚化粧の売春婦と腕を組んで歩いていた。

軍国主義擁護の言論以外は自由になり、「世界」や「中央公論」等の総合雑誌やポルノ雑誌が次々に出版された。それらは、ざらざらな仙花紙の数十ページの粗末な雑誌だったが、国民は活字に飢えていたので、広く読まれた。

永井荷風、谷崎潤一といった大家や太宰治、坂口安吾、宮本百合子等の中堅作家が堰を切ったように書き始めた。坂口安吾の「堕落論」は大きな反響を呼んだ。特攻隊員として死ぬのを覚悟した人が闇物資の担ぎ屋になった。、永遠の愛を誓って夫を戦場に送った妻が身を落とし、国の指導者は占領軍に媚びている。私たちは、徹底的に堕落し続けよう。そうすれば、新たな生き方が見つかるという。

2. 懺悔派エリート

占領下の寒々とした光景を前にして、経済学者・エコノミストはどのように考え、行動しただろうか。それは5つのグループに分けられる。

まず、第1は、戦争に協力的な論文を書いたり、厳しい弾圧に耐えかねて転向したりした人だ。当時の代表的な思想家は西田幾多郎と田辺元だった。西田は苦しい理屈を述べた。個人の精神は自由であるが、国家は民族の自己表現の場であるから、国家が不当な戦争を始めた時には、国家の命令に従うべきだ。彼は敗戦を予想していた。敗戦直前の3月に亡くなった。

田辺は、国家非常の時には、思想家も国家に貢献すべきだと主張し、彼は西田よりも戦争に協力的だった。敗戦後直ぐに「懺悔道としての哲学」を発行し、自分が悪かったと懺悔すれば光明が得られるという結論だった。50年に文化勲章を受章した。

河上肇は思想遍歴を重ねた経済学者だ。京都大学教授の時にマルクス主義者になり、ベストセラー「貧乏物語」を書いた。京大を辞職して日本共産党に入党し、33年に治安維持法違反で懲役5年の実刑を受け、獄中で転向した。敗戦とともに、再び、日本共産党の支持を表明し、思想遍歴を長編の「自叙伝」に纏め、この本も教養書のベストセラーになった。

国民の大部分は、このグループと同じ考え方をし、軍部に協力させられたのは残念だったが、やむを得なかった。それを反省して再出発し、アメリカに負けない経済力を築こう。当時は「一億総懺悔」と言われた。47年に西田の代表作「善の研究」が再版され、発売予定日には本屋の前に早朝から行列ができた。

3. 反戦のエリート

第2のグループは敗戦を「日本の解放だ」と喜んだ人達だ。敗戦の2ヶ月後に政治・思想犯として獄に繋がれていた3000人が出獄した。日本共産党の幹部だった徳田球一と志賀義雄は18年間、宮本顕治は12年間それぞれ非転向を貫いた。

多くの国民は、思想を変えずに戦争に反対し続け、10年以上も牢獄で生きていた人が20名近くいることを知って驚嘆し、共産党は道徳の手本になった。多くの知識人は共産党を支持すれば、戦争に協力した罪が拭われるような気がした。瞬く間に、共産党は労働運動を指導するようになり、獄中の宮本賢治と結婚した宮本百合子の小説には若い人達の人気が集まった。間もなく、共産党は占領軍を日本解放の軍隊だと評価したり、またソ連共産党の指揮下で置かれていること判ってきたので、国民の支持を失った。

第3のグループは、戦前や戦時中に教職を追われ、執筆の機会を奪われた人達だ。東京大学では大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎、山田盛太郎、東北大学では宇野弘蔵、九州大学では向坂逸郎、高橋正雄など、治安維持法違反等で逮捕された著名なマルクス経済学者が続々と大学に戻り、マルクス経済学(マル経)が一世を風靡した。

永井荷風の小説は、戦時中には風紀を乱し、また厭戦気分を起こすという理由で、発禁になった。彼の日記によると、8月15日に友人夫妻と祝宴を張り、直ちに戦争中に書きためた小説を発表した。

第4は戦時中、自発的に執筆を止めたり、軍部を刺激する発言を控えた人である。反戦的な学者はマルクス主義や天皇問題に触れずに講義をし、執筆を避けた。東大の憲法学者・宮沢俊義は講義を憲法4条から始めた。3条までは天皇に関する条項だから言及しなかった。東大の経済学者・舞出長五郎は経済学説史の講義でマル経だけ避けた。

敗戦直後の丸山真男(東大法学部教授)は学生にとって神のような存在だった。国家は国民に対して戦場に赴く命令を発することはできるが、この戦争は正しいと思えとか、忠君愛国の心を持てとか個人の思想に関する命令を発する権利がない。日本の誤りは思想まで統制したことだったという。丸山思想は知識層に大きな影響を与えた。

優秀な学者の大部分は、戦時中も大学に残った。彼等は戦争に批判的だったので、敗戦を平然と受け止めた。

なお、東京大学の理工系の学部では戦時中も講義や研究が続いていた。東京の下町は45年3月9日の夜に焼夷弾攻撃によって灰燼に帰し、約10万人が焼死した。ノーベル賞を受賞した小柴博士は、その翌朝被災を免れた東大理学部の25番教室に出席すると、何時も同じ調子で、田中努教授の「物理実験第1」の講義が始まった(同氏の「私の履歴書」)。エリートへの基礎教育は、続いていた。

4. 温存されたエリート

第4は、仕事の中で敗戦を予想しており、、直ちに戦後の経済復興について検討した人達である。官僚や学者にはそういう人がいた。

幾つかの例を挙げてみよう。宮沢元首相は、太平洋戦争が始まった41年に大蔵省に入り、戦争保険の担当官の時敗戦を迎えた。敗戦後直ぐに大蔵大臣秘書官になり、GHQとの交渉の担当になった。池田元首相や大平元首相は大蔵省で戦中・戦後を連続して仕事をしている。1950年代から60年代にかけて、最も優れた業績を上げた下山治博士もそうだった。大蔵省の中核職員は徴兵を免れた。宮沢元首相は召集されたが、翌日解除になった。大蔵省の中核職員は機密情報に接していたので戦況が不利になり、敗戦が間近いことが判っていた。エリートは戦場に行かなかったのである。彼等は敗戦になっても狼狽しなかった。戦後は局長以上が追放になったので、若い官僚は重要な仕事を任され、能力を磨いた。学生時代に、自由主義の価値や民主主義の制度を学んでいたから、GHQの占領政策に適応できた。

日本銀行の吉野俊彦は、下村治、金森久雄と並ぶ優れたエコノミストだ。彼は1941年に日銀に就職して調査局に勤め、中山伊知郎(後に一橋大学学長)や東大を追われた大内兵衛からも個人講義を受けた。 調査局における吉野の仕事は、ドイツの潜水艦によって横須賀に運ばれてくる日銀・ベルリン駐在員のレポートを読み、整理することだったので、ヨーロッパの戦況が判っていた。

日銀総裁だった渋沢敬三は東大で大内ゼミの学生だった。大内は治安維持法違反で逮捕され、裁判で争い無罪になったが、就職先がなかった。渋沢は大胆にも彼を日銀の嘱託に採用して部屋を与えた。大内は国策会社である同盟通信に勤めている教え子を通じて、ヨーロッパでは44年9月に、戦後の国際金融システムを議論するブレイトンウッズ会議が開かれたことを知った。吉野もベルリン・レポートで、この会議の情報をしっており、吉野と大内は44年秋から、日銀で戦後の金融体制の研究を始めた。大内は1次大戦直後のドイツに留学してインフレを研究したので、日本の戦後インフレを恐れた。

有沢広巳は治安維持法違反で逮捕され、保釈中であった。マル経と軍部は統制経済を認める点では同じであり、彼の見識は陸軍で評価されて、39年に参謀本部・経済調査の英米班の班長に招かれた。この班の結論によると、アメリカの軍事費負担能力は日本の6倍である。参謀本部はこの結論を無視した。有沢は1943年暮れから高橋亀吉とともに戦後経済の問題を研究し、敗戦の日には、疎開先の庭で野菜を作っていた。

石橋湛山は、在野のエコノミストであり(東洋経済新報主幹)、1930年の片岡蔵相による金解禁政策に強く反対し名声を博した。彼は「日支事変」や「大東亜戦争」に反対する論文を幾つも書いた。その論拠は、植民地の拡大は、開発費と軍事費を増すだけであり、国内のインフラ投資の方が遙かに国益になるということだった。不思議なことに、彼は逮捕されなかった。多分、マルクス主義者ではなかったからだろう。

なお、旧制中学でもエリートが温存される仕組みがあった。全国からとびきり頭が良い学年毎に200名の生徒が、石川県の田舎に集められ、自然科学の特別教育を受けたそうだ。鈴木淑夫(元国会議員)や波賀徹(東大)はその中にいた。私は同じ頃旧清水市の軍需工場に動員され、爆撃や艦砲射撃を受け逃げ惑い、時々敵の戦車に自爆攻撃を掛ける訓練を受けていた。

5. マル経・近経合同の長期経済見通し

アメリカの日本占領は、間接統治だったので、日本の官僚やエコノミストが必要だった。敗戦によって、日本経済は再起不能の打撃を受け、国家秩序が崩壊したが、大蔵省の中核職員は徴兵されなかった。彼等は敗戦後直ぐに、維持された官僚システムにのって深夜まで働いた。また一流の学者・エコノミストは年配だったので徴兵を免れた。頭脳が優れ厳しい倫理観をもった経済学者やエコノミストが大雑把な推定であるが、300名ぐらい無傷で残された。彼等が日本経済復興のシナリオを検討し、実施した。

学者・エコノミストの19名が、外務省の委員会の委員になり、敗戦の半年後にレポート「日本経済再建の根本問題」を発表した。この委員会は空襲が激しい中、大来佐武郎(当時大東亜省)によって企画され、北京の日本大使館から東京に出張していた後藤誉之助(電気庁)と相談して、8月16日から始めることを決めた。

大東亜省は15日から外務省に統合されたので、外務省の委員会になった。ここには、東大経済学部を追われたマル経学者の大内兵衛、山田盛太郎、有沢広巳、宇野弘蔵、脇村義太郎、近代経済(近経)学者の中山伊知郎と東畑精一(東京大学教授)、エコノミストの稲葉秀三(元企画院)と土屋清(朝日新聞論説委員)等戦争に反対したり、非協力だった一流の学者・エコノミスト一九名が集った。

山田盛太郎の理論は日本共産党の革命戦略の基礎だった。この委員会には、共産主義者から自由経済主義者まで参加し、思想的にばらばらだったが、戦時中の東条政権に抵抗したという同志感で繋がっていた。半年で四〇回も会議を開いて二〇〇ページの小冊子をつくった。

その趣旨は、日本経済の成長には、重化学工業と労働集約的機械工業(過剰労働力が存在していたから)の成長が必要だ。軍隊がなくなり、優れた労働力が大量にいる。政府が金融機関と重要産業を管理すれば、4年後の1950年には、1人当たり国民所得は、1930年水準に戻るという予測であり、それは実績に近かった。実績は朝鮮戦争という突発的事態によって達成された。

石橋湛山は、敗戦の翌月に、「産業再建策の要領」を東洋経済新報に発表し、軍需産業から平和産業へ転換するのに必要な貿易量を算定した。アメリカは、必要量を満たすべきだという主張だった。以上

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