アジア動向

静岡新聞論壇 7月5日掲載文

不幸な韓国と強靱な韓国人。

疲弊招いた朝鮮戦争

朝鮮戦争は50年の6月に始まり、53年の7月に終わった。北朝鮮はソ連に唆されて、朝鮮半島の支配を決意した。戦争はまず北朝鮮軍が38度線から南下して釜山近くまで攻め込み、次に米軍(多国籍軍)が参戦して北上し、北朝鮮軍を鴨緑江まで追い詰め、最後に中国の大軍が、米軍を38度線まで押し返し、硬直状態のもとで休戦になった。朝鮮半島は戦線が2回通過したので、ほとんど壊滅し、約400万人の市民が亡くなった。

私の韓国の友人は、難民になって釜山にたどり着いた時、米軍が英語を読める人を募集していた。合格すると行き先も告げられずに船に乗せられ、富士山が見える国で降ろされ、富士山の麓で演習の通訳になった。そこでは、8000名の韓国兵が米軍から訓練を受けていた。2ヶ月後、米兵や韓国兵とともに横浜港から、仁川上陸の戦闘へ出発した。私が彼を御殿場に案内した時、確かにここだったという。
米軍が鴨緑江に迫ると、ソ連が武器援助して、中国が参戦した。ソ連は米中が戦い、消耗するのを狙った。結果は、まず米軍が38度線で停戦して消耗を避け、ヨーロッパにおけるソ連との対立に耐える力を残した。

つぎに、中国は、設立後わずか八ヶ月の核兵器を持たない弱い国だったが、米軍と対等に戦い、国際的地位を一挙に高めた。中国軍はこの戦いで強くなり、ソ連に反抗し、60年代の終わりには、国境問題でしばしばソ連軍と戦った。キッシンジャーは、朝鮮戦争によって米中ソの3局時代が始まったという。
日本は、その頃、占領軍(米軍)の指令によって厳しい緊縮財政を実施しており、失業者が街に溢れていた。突然、米軍から軍服、ジープ、弾丸、舟艇等巨額な軍需発注が相次ぎ、日本経済は破綻の底から再生できた。当時、「天佑の朝鮮戦争」と云われた。
韓国では、インフラが破壊され、家を焼かれ、国民は飢え、学童の学力は酷く低下した。その後、北朝鮮との厳しい対立が続き、軍事独裁政権が言論を厳しく統制し、市民は毎月防空演習に参加した。北朝鮮のスパイを警戒して秘密警察網が張り巡られ、それは日本まで伸びていた。

強国に対抗、脅威の成長

韓国経済の再建には、65年に日韓平和条約締結の時、日本から与えられた有償・無償合計の8億ドルの借款が役立ち、それはインフラや製鉄所の建設に向けられた。

同じ頃、韓国経済にとって、「天佑」のベトナム戦争が起きた。韓国兵が出兵し、軍需品が輸出されて、10億ドル以上の外貨を稼ぎ、財閥企業が続々と成長した。

韓国は中、ソ、日の3つの強国に囲まれ、かつ北朝鮮と対決しており、国民は頑張らざるを得ない。88年に学生運動の力で民主的政権が生まれ、経済が開放体制に変わってから、驚くべきスピードで、グローバル化が進んだ。今や、IT、自動車、造船、鉄鋼等の産業では世界でトップ水準に達し、日本を遙かに抜き去った産業もある。

国連事務総長は韓国人、世界銀行総裁は韓国系アメリカ人である。毎年、初夏になると、韓国の不運と、韓国人の能力の凄まじさを改めて感ずるのである。

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