価値総研「Best Value」

2013年7月

ロシアとロシア正教の底力

世界では、数千年の歴史をもつ民族は何れも強力な宗教を持ち、文化の統一を保ってきた。ユダヤ、キリスト、イスラム、儒教、仏教、ヒンズー等は強い宗教であり、それを信ずる民族は、現在でも、強烈な存在感を放っている。ロシア正教もその1つである。無宗教だったソ連は、ロシア正教と結合したロシアとして復活し、再び、強国になった。

1. 専制政治と宗教の一体化

ロシア民族は、凄まじい自然条件と東西から絶えず襲ってくる強敵と戦って生きてきた。ロシアの広い土地は北部の森林と南部のステップに分かれ、ステップ地帯は肥沃だが、雨が少なく、農期が短い。

ロシア人は、このステップ地帯で農耕を営み、ついでラッコの毛皮を求めて東へ東へと開拓を進めた。ステップ地帯では、モンゴルを始めとする強力な騎馬民族が襲い、また北西から絶えずバイキングが侵入してきた。ロシア人は防衛上、しばしば、外国人を国政の中核に据え、外国文化を受け入れたが、ロシア民族本来の宗教と文化は少しも変わらなかった。

ロシアの起源は、9世紀に生まれたキエフ・ロシアであり、広い土地と少ない人口を持った連合国家だった。その頃、東西キリスト教が分裂し、キエフ・ロシアには、文化的に優れていた東方正教の信者が多かった。そこにモンゴル軍が現れ、13世紀中頃からロシアを支配した。モスクワ公国は、15世紀の終わりに、西欧から鉄砲を輸入して、弓矢のモンゴル軍団を破り、「タタールのくびき」を脱した。

同じ頃、イスラム教のオスマン・トルコが東方正教国の首府・コンスタンチノーブルを占領した。その機会に、モスクワの大主教は、ロシア正教こそ東方正教の正当な継承者であると声明し、現在でもロシア人はそう思っている。

ロシア正教では、聖書の誤訳が多かったが、ロシア人はそんなことを苦にせず、伝統的な地元宗教と結合して、8世紀頃から厳格に信仰を守り、厳しい自然の中でひたすら救済を求めた。

16~17世紀にかけて、ロシアでは独裁国家の基盤が形成された。ロシアには、1人の君主が全土を支配しするという歴史がなく、多数の國に分かれ、バラバラに統治されていた。ところが、モンゴルに支配されていた240年間は、ハーンの命令ですべてが決まる独裁制であり、国王が直接に全土を支配した。

16世紀中頃に登場したイワン大帝は、ハーンを見習い独裁システムを完成した。貴族の世襲地を無理矢理に取り上げて国王からの貸与地に変え、すべての自由農民をその貸与地からの移動を禁止にし、農奴として貴族に与えた。国王は、貴族を通して租税を集め、その実質的な負担者は農奴だった。

ロシア人は、もともと広い土地を移動する自由を好んだ。その頃、鉄砲で武装したロシア人はボルガ川を制圧し、さらにカスピ海まで達した。東はウラル山脈を越え、シベリアに向かった。イワン大帝はそれを追うように国有地を広げた。若いロシア人はそれを嫌い、毛皮を求めてさらに東に進み、17世紀前半には、オホーツク海に達した。ロシアの領土は急速に膨張した。

イワン大帝は、開拓地を私有化した貴族を殺害した。大部分の農民は、国王が貸与する土地の農奴にされたので、大家族や共同体で助け合い、神にすがって生きるしか方法がなかった。ロシア文学では、農奴の悲惨な生活と、助け合う暖かみが、見事に描かれている。

イワン大帝の頃、西からの攻撃が始まった。17世紀初め、ポーランドはモスクワを占領し、西方正教(カトリック)の傀儡政権をつくった。ロシア正教は、弱腰の政府に代わって、国民にポーランドとの決戦を呼びかけ、5年後にポーランド軍を追い出した。ロシア正教の力が強まり、主教の息子・ミハイル・ロマノフが国王に就任した。

ロシア正教は、東方正教における指導地位を狙った。まずギリシャ語の原本にあたって聖書の誤訳を直し、またハレルヤを2回唱えていたのを3回にし、十字を切るのは2本の指から3本に変え、すべてギリシャ正教風に改めた。反対者は火あぶりの処刑にした。

ロシア正教は、ウクライナ、白ロシアの教会を支配して、東方正教の中心になり、また政府の農奴政策を支持し、政治権力と結合した。ロシア正教は強力になった。西方正教のようにルネッサンスが発生する余地はなかった。

2. 西欧文化の影響・農奴解放運動

ロマノフ王朝はロシア革命まで200年も続き、ロシアはずっと政教一致の独裁国家だった。ロシアは、17世紀末のピョートル大帝の下で西欧化が進み、ついで、ドイツ貴族出身のエカテリーナ女帝は、ドイツ人の政治家やフランス人の文化人を続々と重要なポストに迎えた。

ピョートル大帝のサンクト・ペテルブルグの建設を始め、西欧化には莫大な出費が必要だった。農民は、厳しい自然の中で宗教共同体を創って熾烈な徴税に耐え、伝統的なロシアの生活を守った。結局、ロシアで西欧化したのは、貴族層だけだった。

ロシア正教の教会は、東西キリスト教会にない見事な木造や石造の組み合わせによって、タマネギ型の重層的で幻想的な塔を持っている。ロシアのクラシック音楽は、チャイコフスキー、グリンカ、ラフマニノフ等、曲の一節を聞いただけで、ロシア音楽だと判る。小説はドフトエフスキーのような実に重厚な大小説から、チェーホフのペーソスに満ちた短編まである。バレエはクラシックから、現代物まで素晴らしい。

西洋文化はロシアに吸収され、ロシア文化が創造された。経済発展が遅れた極貧地域を抱え、識字率が非常に低い國であったにも拘わらず、高度な文化と思想が生まれた。

ロシアの農民は、貴族の豪華な生活を支えるため、牛馬のように働き、貧しさに苦しみ、神にすがって生きている。ロシア知識層には、そうした農民を愛し、救いたいと思っている人が多かった。「デカブリストの反抗」は19世紀の始めに発生した。ロシア陸軍の幹部はナポレオン戦争の時、ヨーロッパで文明を知り、その哲学の文献を読み、ロシアの欠点は農奴制にあることを知った。彼等は農奴解放を主張して、過激な武力行動に走ったが、失敗して首謀者は死刑やシベリア流刑になった。シベリア流刑者の中には、約10名の妻が同行して、シベリアで農奴と同じように働き、ロシア正教の深みを悟ったという。32年後に恩赦が下り、女性の鏡といわれた。

政府は、19世紀半ばに農奴解放を決めたが、その内容は土地の買い取りを伴っていたので、土地を買える農奴はほとんど存在せず、土地を買った農奴は借金地獄に追い込まれた。

農奴解放運動は、知識層から聖職者や下級官吏にまで広がった。アナーキズム(無政府共産主義)は、壮大な大地、一神教の信仰、貴族と農奴の絶望的な生活格差、等の特色を持つロシアでは、受け入れやすい思想体系だった。大学生は、秘密結社をつくり、学業をなげうって「ナロードニキ(人民の中へ)」の運動に飛び込み、政府の抑圧がない、自由な農民社会の建設を目指した。若い男女の学生は農民服を纏い、また教師、産婆、行商人になって農村に向かい、農奴の解放運動に取り組んだが、農奴は知識層が話す内容を理解できなかった。まず、彼等が使う単語の意味が分からない。貴族と農奴は別社会の人間であり、「ナロードニキ」は失敗した。

それ以後、運動は穏健派と過激派の2つに分かれ、過激派のナロードニキはテロ活動に熱中し、皇帝の暗殺には成功したが、結局自滅した。

3. 共産主義の犠牲

ロシア政府は、学生や知識層の革命運動を恐れ、19世紀の後半には、大学の自治を制限し、貧困家庭やユダヤ人の教育にも規制を加えた。識字率が低下したと言われている。

ユダヤ人は、農奴、労働者と同じように典型的な被搾取階級であるから、マルクス理論によれば、共産主義社会を建設する階級闘争の担い手になれる。ユダヤ人、労働者、農民、知識層は団結できるはずだ。

ロシア革命ではスウェーデン系ユダヤ人を母とするレーニンや、両親ともユダヤ人のトロッキーが活躍し、暴力革命に成功して、1917年に共産党独裁のソ連を創った。レーニンはロシアは工業化しつつあるから、革命の主体は労働者だと主張して、実際、そうなった。

レーニンの跡を継いだグルジア人のスターリンが秘密警察網を張り巡らした独裁政権を完成した。ソ連の弱点は100を超える民族と言語が存在することだ。スターリンは、少数民族出身であるから、他の少数民族の反感・反逆を恐れ、その可能性が少しでもあれば抹殺した。「ロシアは民族の牢獄」だった。

有名な例を挙げよう。2次大戦中には、シベリア南部に住んでいた朝鮮族は敵性民族として、全員がウズベキスタンの原野に強制移転させられた。クリミヤ半島のタタール人は、ドイツに協力的だという理由で、全員即日強制移動させられ、クリミヤ共和国は一日で消滅した。

1910年代の終わりには、革命に伴う内戦によって、農業生産は低下し、食糧危機だった。また、工業やインフラは荒れ果て、革命政府は崩壊しそうだった。スターリンは、まず農民から土地を没収して、農業を集団化し、収穫の相当部分を税として徴収した。こうして集められた食料や原材料は、ダムや工場を建設する労働者の食料になり、建設材料になった。ソ連経済は、農民の犠牲によって再建され、強力になった。

それに反対した土地持ち農民1000万人は強制収容所に送られ、30年代中頃には強引な経済政策に批判的な知識層300万人近くが粛清された。かつての革命の同士や有能な軍人は、ほとんどすべて消えた。

ロシアの民衆は、スターリンの恐怖政治に耐えて、強いソ連をつくり、2次大戦では、血みどろの戦を続け、2700万人の犠牲を出したが、最後に勝った。ロシア人は独裁政権に慣れ切っており、兵士の死を少しも苦にしない赤軍の組織の中で、イコンに祈りながら強い力を発揮した。

スターリンによる社会主義の命令的経済は、60年代頃までは、すばらしい成果を発揮した。ガガーリンは人類初の宇宙飛行に成功し、世界を驚嘆させた。

ソ連社会は特殊だったから、サラリーマンにはソ連出張は実に楽だった。ソ連の受け入れ側機関が、空港からの乗り物やホテルまで全てを決め、ホテルのレストランでは料理は一種類か二種類しかなく、ビールは不味く、一種類であるから、選択の余地がない。どの店にも、土産になるような商品はない。怠け者にとっては、選択の自由がないのは実に気が楽である。

しかし、ソ連時代にはインフラ投資が不足し、トイレは不潔極まりなく、汽車のトイレは便が山盛りになっている。ソ連人は中腰で用をたすようだ。小さな都市では、赤茶けた水道水であり、夏の公園の空は、大きな蠅と蚊で被われている。普通のアパートは、数所帯で1つのバス・トイレを共同で使っている。ロシア人はこうした貧しさに耐え、遂に、ソ連を世界一の宇宙開発国にした。

4. 市場経済化の混乱

経済が発展して、産業が複雑化すると、計画経済によって、数十万種類に達する製品、部品、材料について需給のバランスを保ち、かつ経済成長を続けることが難しくなった。

例えば、農産物の生産単位は重量だった。大規模な国営農場は一キロ四方の大温室であり、温水が流れるパイプが地表に縦横に配置されている。そこで大きく、重いキュウリや茄子が大量生産された。キュウリや茄子のノルマの単位は重量だったから、味はどうでもよかった。

国営工場の責任者の重要な任務は、上部の機関と巧く交渉して、ノルマを少なくして仕事量を減らすことと、原材料の割り当て量を多くして、転売して儲けることだった。ソ連時代には、すべての労働者が怠け、国家の原材料を掠めて生活し、平等に貧しく、図太く生きた。その頃、真面目に働いていたのは、ミサイルや核兵器の工場に勤めるエリートだけだった。

私は、ソ連時代の終わりに、朝9時頃、モスクワで国会副議長を訪ねたことがあった。彼は自ら資料をコピーし、コーヒーを入れてくれた。秘書は9時に出勤し、お化粧などのために、仕事の始まりは、10時近くなるそうだ。「これが労働者の国ソ連です」と、彼は自嘲していた。

80年代には、ソ連経済は資本主義国と圧倒的な格差を付けられた。エリチィン大統領は、次のように考えた。ロシアは、ロケット、人工衛星、核兵器等、先端技術分野では世界水準を抜き、また豊富な天然資源を持ち、人材も豊かである。しかし、経済が停滞し、消費財の国際競争力がないのは、計画経済と官僚組織がわるいからだ。市場経済に転換すれば、直ちに、アメリカに追いつくはずだ。彼はロシアの伝統である外国文化の吸収力とロシア化する力を過大評価していた。

エリツィンは91年に政権を奪取すると、直ぐに、ロシアを社会主義経済から市場経済に転換させた。巨大な共産主義体制は、小さな内乱が発生しただけで、静かに崩れ落ちた。しかし、ロシア人にインテリさえ、市場経済とは何かを知らず、売り惜しみし、高値の吹っかけ、騙し合いによって、自由に儲けるのが、市場経済だと錯覚し、農奴時代の社会感覚から脱却できなかった。 経済が混乱し、一時期には対外債務を返済できなくなり、国家破産に落ち込み、国全体が貧しくなり、犯罪が激増した。ロシアの物盗りは、まず人を殺し、それからゆっくり盗むと怖がられた。

官僚や党幹部の一部は国有企業が民営化される時、特権、コネ、情報を利用して、大量な株式を安い価格で手に入れた。彼等は、石油、天然ガス、非鉄金属、テレビ放送等の分野で、独占企業の経営者になって、莫大な利益をあげ、献金によってエリツィン政権の政策を動かすまでになった。これらの新財閥はオリガルヒと呼ばれ、大部分がユダヤ人だった。彼等は、金の力でロシアの乗っ取る勢いだった。

そうした時、突然、プーチンが登場して、経済の実権をオリガルヒから奪還し、国営企業を復活させ、言論を統制し、警察力を強化して、伝統的な独裁国家体制を取り戻した。強いロシアが戻ったのだ。プーチンは、プーチン批判を繰り返す反抗的なオリガルヒには脱税や国有資産の横領という罪を着せ、牢に繋いだり、国外に追放したりした。

プーチン政権は、反抗的オリガルヒの1人が経営していた石油・天然ガスの大会社・ユーコスを脱税容疑によって破産に追い込み、国営企業のガスプロムに吸収させた。イラク戦争の勃発とともに、原油価格が上昇を続け、国営巨大企業のガスプロムは収益が膨張し、その高配当がロシアの膨張する財政を支え、経済の高成長を実現した。 プーチン政権が発足した2000年以後、10年間で、ロシアのGDP(ドル換算)は、5倍以上になった。500メートル四方という巨大なスーパーが各地に現れ、そこには品物が溢れていた。夢に見た豊かな国になった。

5.強い専制ロシアの復活

プーチン政権は、国内政治を統制するため、まず地方の自治州知事を選挙から大統領の任命制に変え、ついでテレビを国営化して、反政府の言論を統制した。急進的な反体制のジャーナリズムの何人かは、原因不明の事故で死んだ。ロシアは、大統領が選挙で選ばれる民主主義国家であるが、言論は事実上制限された。

ロシアには、豊富なエネルギー資源があり、原油や天然資源を武器として、ドイツ等の中央ヨーロッパや、中国、韓国、日本等に政治的影響力を与えることができる。ミサイルや核の技術はアメリカに匹敵し、依然として軍事強国である。ロシアの不安は製造業に広い裾野がないので、中産階級が育たず、貧富の差が大きいことだ。

モスクワ郊外の森には、お城のように大きい豪華な邸宅が点々と連なり、シャネルやルイビトンの高級店が出店している。アメリカのビバリーヒルズよりも立派である。彼等は外国に大きな別荘やヨットを持っている。

これに対して、モスクワの街角には空き缶を持ってお金をねだる老人がおり、農村は貧しい家ばかりだ。皆が等しく怠け、等しく貧しかったブレジネフ時代を懐かしむ老人が多い。ロシア正教は見事に復活し、教会は路上生活者に無償で食事を提供している。ソ連時代の運動施設はロシア正教の教会に改造され、底辺の人を救っている。

レーニンとスターリンは、「宗教は阿片だ」と考え、ロシア正教を徹底的に弾圧し、多くの神父がシベリアに送られた。それでも、ロシアの基盤をなす農村には信者が根強く残り、ソ連崩壊とともに蘇った。モスクワの救世主ハリスト大聖堂はスターリンによって爆破されたが、エリツィン政権とモスクワ市の援助によって、見事に再建された。

6.宗教と政府の再結合

ロシアには、伝統的な呪術が広く残っており、呪術師は病を治したり、キリストのように超能力を発揮すると信じられている。極寒の地の大自然で、生き抜くには、呪術が必要だった。

ロシア正教は、異端宗教、呪術、キリスト教の混合物であって、教会での祈りは、まず聖人への呼びかけ、その後に呪術が続き、最後がアーメンになる。

彼等は西方キリスト教のように、神と人間との関係といった問題を殆ど考えず、専ら、呪術の能力を兼ね備えた神にすがった。ロシア正教は呪術を改めさせようと努力したが、無駄だった。多くの知識層は、ロシア的な一神教を信じて共同体的な生活をしている農民こそ、真のロシア人であると敬愛した。

トルストイやドストエフスキー等、ロシア文学の大家の作品には、何れも生と死が共存している。トルストイは、2歳で母を、8歳で父と死別し、ドストエフスキーは父が農奴に撲殺され、本人は死刑宣告を受けて刑場に引かれる寸前に助かった。トルストイは、大自然の中で死と隣り合わせにある生を描き、「百姓は静かに死ねる。彼は自然を信じているからだ」と述べた。

ドフトエフスキーの作品には、大都会で死に怯えながら無神教に陥る孤独な者と、神と一体になって無神論者を救済する聖者がいる。ロシアの大作家の心は、キリスト教と伝統的な自然宗教とが混ざり合いつつ、伝統宗教に傾いている。

プーチンは国営企業を復活させ、伝統的な独裁国家ロシアを蘇がえらせた。それとともに、ロシア正教が堂々と復活した。プーチンは、大統領になると、すぐロシア正教の総主教と会見し、以後、国家の重要行事には総主教が参加している。

ロシア正教では、聖人が崇められる。現在の総主教も地上の欲望を捨て、禁欲苦行の隠遁生活を長く送った人である。 世俗的国家元首と宗教的権威が強く結合して、ロシアは強国に戻った。

最近、聖人の復活が進み、ニコライ2世の一家も再評価された。一家はボルシェビーキ革命軍によって夜中に突然起こされ、9人全員が銃殺された。一家は亡命が可能だったが、シベリアの流刑を選んだ。一九歳、一七歳、一四歳の美しい少女も処刑された。キリストのように、自ら進んで人類の犠牲になったと言うのだ。

ロシアはソ連時代に74年間も宗教を厳しく弾圧したが、その間も、農民は立体感のないイコンを信じて、餓死・凍死すれすれの生活を生き延びた。各地に釘を使わない木造と石造を組み合わせ、ネギ坊主型をしたロシア正教の教会があり、農民はそこへ黙々と通い、神を頼りに生きた。

プーチンは、ロシア正教が行き渡れば、汚職、犯罪、自殺が減り、国家資本主義が成功すると思っている。ロシア正教は1000年も前から、極貧の時にはロシア人の心の救世主になり、スターリン時代でも生き抜き、現在、ロシアを大国に押し上げる力になっている。

彼等は、ごく近い将来外資と組み、底辺の広い自動車産業等をヨーロッパ・ロシアにも、シベリアにも育成して、幅広い中産階級を創造する計画だ。ロシア人の才能とロシア正教には、それだけの力がある。



参考文献

ロシア」川端香男里 講談社学術文庫 1998年

「ロシアとソ連邦」 戸川継男 講談社学術文庫 1991年

「ロシア文化の箱船」 第1章「現代ロシアの呪術リバイバル」 藤井潤子

     第3章 「父なき世界」 鴻野わか葉 東洋書店 2011年

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