価値総研「Best Value」

2010年2月

プロテスタントと市場経済

1. 所得格差は当然だという考え

アメリカにはプロテスタントが多く、彼らの思想がアメリカ経済の性質に影響を与えており、所得格差が大きいのもその一例だ。金持ちは豪邸に住んで執事を雇い、自家用飛行機でレジャーに出かけ、貧乏な人は不潔で犯罪が多いスラムに住み、自動車もなく、子供の教育も諦めている。しかし、多くのアメリカ人は、貧しさは自己責任であって、金持ちが援助する義務はないと思っている。
 医療保険に加入していない人は人口の20%を占め、その大部分は貧しい人であって、充分な治療を受けられずに、死ぬ人が少なくない。オバマ大統領はすべての国民が医療保険に加入する制度を目指しているが、共和党だけではなく、民主党にも反対論が強い。
 その理由の1つは、医療保険に加入するか、しないかは個人の自由であり、政府が国民に加入を押しつけるのは、自由の侵害である。もう1つの理由は貧しくて、医療保険に加入できないのは自己責任であるから、財政資金を投入すべきでないという。
 また保険会社が反対である。公的な保険会社が設立されれば、民業圧迫になり、またその経営は非効率になるだろうという理由だ。医師団体も反対である。貧しい人が手術を受け、その料金が保険支払い額オーバーする時があり、医師が損失を受ける可能性が大きいからだ。
 何故、アメリカ人は、貧しい人に冷たいのか。それはプロテスタントの思想と関係があるらしい。それを仏教やイスラム教と対比して考えてみよう。

2. 死と生に関する見方

 現在でも宗教はかなり大きな力を持っている。日本では創価学会がテレビでコマーシャルを流している。多くの家庭では、お盆やお彼岸に伝統的な宗教的行事を欠かさない。アメリカでは若者の70%は神がこの世を創ったと思い、40%の人が「最後の審判」を信じているという調査がある。
 神秘におののくのは、中世の話ではない。現在でも、無限の数の生命の存在、食物連鎖の壮大な体系、直径・100億光年の宇宙の大きさ等、不思議があまりにも多い。
 私たちの本源的な不安は、不思議なことが多いことの他に、死後どこに行くか判らないことだ。全く無になるのか、地獄があるのか、犬か何かに生まれ変わるのか心配である。死の意味が判らなければ、安心して生きられない。
 安心するには、まず宇宙の原理や誕生の歴史を知って、現在の自分の位置や役割を悟る必要がある。それに関して、仏教、儒教、イスラム、キリスト教などいろいろな信仰が生まれ、それが経済活動に影響を与えた。
 仏教には、万物が長い期間をかけて、輪廻転生する原理がある。天上、人間、修羅、畜生、地獄と転生するのだ。悪人は地獄に落ちるが、数十億年をかけて、善行と修行を積めば天上に入れる。そこでさらに100億年間ぐらい修行を重ねると仏になれる。輪廻転生から解脱して、浄土に入り、成仏できるのだ。実に雄大なストリーである。
 儒教は現世の生き方を教えたものであって、孔子は死後の世界を考えるなといった。儒教によると、君主は仁をもって国を治め、族長は義によって大家族を守り、子供が父母に孝を尽くせば、国も一族も繁栄する。死んだ時には繁栄した一族によって手厚く葬られ、その後、一族の祭壇に祭られる。
 仏教や儒教の話はあまりにも抽象的であって、死や生に関する個人的悩みに答えてくれない。そこで、中国人は老子が荘子の思想や、土着宗教である道教の教えを借りてくる。
 日本では、徳川時代に仏教が弾圧され、寺社は檀家制度に組み込まれて、まるで市役所の戸籍係に変わり、戸籍の抹消の儀式とも云える葬式係を引き受けた。人々は宗教を失い、死後には、お盆の時、西方浄土を抜け出して子孫の家を訪ね、お彼岸には、子孫が墓にお参りをして、声をかけてくれると単純に思っている。

3. 勤労のエネルギーの誕生

キリスト教やイスラム教では、死後の様子が解っているから、生きている時から、対策を打たなければならない。死者は待合室のようなところで待っていると、やがて「原罪」を犯した人類に対する「最後の審判」の日がやってくる。
 その時にキリストがこの世に再臨し、この世が突然神の国に変わる。審判に合格した死者はこの神の国で生き返り、不合格の人は永遠に無の世界に追放される。
 イスラム教徒は、「最後の審判」の時、花が咲き乱れる美しい天国行きの人と、灼熱の地獄行きの人に仕分けられる。アラーを信じ、戒律を守った人が天国に行く。アラーのために戦死した人は審判なしに天国に入れる。イスラム原理主義者が進んでジハードに赴くのはそのためだ。地獄に落ちた人は、永遠に死なないから、永遠に苦しまなければならない。
 「最後の審判」は一発勝負の大試験である。不合格になると、永遠に無の世界で漂うことになる。カトリック教会は、最後の審判に合格するマニュアルを考えた。洗礼、聖餐等の儀式、罪の告白、臨終の時に身体に塗る終油(香油)などを受ければ、神の国に入れるという。多くの人は神父に言うことを信じた。 プロテスタントはカソリックを激しく批判した。、形式的な祈りが多く、堕落しているというのである。ルーターやカルビンは、神父は嘘をつくから聖書だけを信じろといった。ところが、聖書を信じ、厳しく修行しても、「最後の審判」の日に救済されるという確信が得られない。考えてみれば、神は偉大であるから、人間の努力や情には動じないはずだ。神に救済をお願するのは、神に対する冒涜である。
 そうなると、誰が救済されるかは、すでに決っていると考えざるを得ない。しかしそれを知る方法がない。何かヒントはないか。聖書の奇跡を信じ、戒律を守り、質素な生活を送り、勤勉に働き続けている立派な人は救済を約束されているが、本人が知らないだけかもしれない。信者は「そうだ」と信じた。兎に角、質素に生活し、勤勉に働き、聖書を繰り返し読んで、信仰を深めよう。「最後の審判」の日は近いというから、脇目もふらずに働こうと決意した。

4. 神の祝福を得るために働く

ところで、質素に暮らし、熱心に働いていると、自然に金持ちになる。そうなると、逆に金持ちは救済されることが決まった人だと思われてくる。
 プロテスタントは、熱心に働き、所得を道具に投資して、さらに所得を増やした。マックス・ウエイバーは、この節約、勤勉という「プロテスタントの倫理」が資本主義を起こし、発展させた。プロテスタントが多い国だけが工業化したと述べた。(仏教や儒教には緊迫感がないから、アジアでは工業国が生まれない)。
 プロテスタントの考え方では、金持ちは救済され、貧しい人は救済されないことを運命づけられているのだ。従って金持ちが貧民を援助しなくても、神の意志に反したことにはならない。アメリカでは、プロテスタントの原理主義といえるカルビン派が多いから、貧富の格差が問題にならなかった。
 高額所得は、救済の可能性が高い証拠であるから、誇るべきことだ。投資銀行や商業銀行の役員が、銀行が赤字経営でも数億円の年俸を悪びれずに貰うのは、この考え方と深く関係しているらしい。

 

5. 金持ちの寄付と犯罪者の追放

ところで、成功者の多くは、一生、王侯貴族のような生活を送ることができる。それにも拘わらず、彼らの多くは早朝から深夜まで熱心に働き。普段の食事は簡単だ。質素・勤勉こそ救済の第1条件であるから、豊かな生活をのんびりと楽しめないのだ。
 また金持ちになれたのは、本人だけに対する神の寵愛であるから、それを子孫に残すわけにはいかない。真面目なプロテスタントは、資産は、神の寵愛に答えるために、社会的に意義がある活動に寄付すべきだと考える。
 アメリカの金持ちは、大学、美術館、病院、孤児院に巨額な寄付しているにはそのためだ。アメリカの有名な大学や美術館は、殆ど大資産家の寄付によるものだ。ビルゲイツは資産の90%以上を社会活動基金に寄付した。国家は、寄付行為は個人の救済に関わる神聖な行為だ判断して、それを所得控除にしている。
 貧しい人は神の寵愛を得られないという宿命を負っている。彼は不正を働いたわけでも、取り立てて運が悪かったわけでもないが、神がそう決定したから仕方がない。金持ちは、神が見捨てた人を救う必要はないと考えているが、それにも拘わらず、病院、孤児院、救貧施設の基金に寄付するのは、まず神の寵愛を確実に得られるようにし、ついで、その幸せを広く世間にPRするためだ。
 貧しい人は気の毒だ。真っ当な教育を受けられないから、貧乏は子供へさらに孫へと伝わっていく。貧しい中では道徳を躾られる機会もない。そのため、麻薬依存症や凶悪犯罪人が増え続ける。その大部分は若者の男性だ。アメリカは工業国の中で、総人口に占める受刑者の比率が最も高い国であって、200人に1人が刑務所にいる。
 貧困の家庭で育ち、犯罪を犯した人は、神からも見放されているから、当然、社会から隔離されるべきであり、それが神の意志である。アメリカでは犯罪取り締まりが厳重であり、通報が奨励され、謝金が払われ、警官は凶悪犯に遠慮会釈なく発砲する。
 刑罰は重く、少年を死刑にする州が増えた。50年とか60年という長い刑期の判決が少なくない。仮釈放なしの終身刑があり、終身刑の墓地は刑務所内と決められている州もある。
 多くの学生は金持ちを目指している。貧しくなるのは真っ平だ。そのため実用的な学問に熱心であって、外交や温暖化といった実用に役立たない問題を真剣に考えたりする人は少ない。また、人生上の悩みを友人に相談したりしないそうだ。弱みを見せて神から見放されているという予断を与えたくないのだ。つい最近まで、金融工学が人気の的であり、理工学部の優秀な学生が、金融工学を学んで、金融界に就職した。

 

6. プロテスタント倫理の敗北

 世界経済の歴史を振り返ると、一次大戦後から20年代を通じて自由主義経済が繁栄し、プロテスタントの大統領が活躍した。日本では大正デモクラシー時代であって、旧財閥や新興財閥の企業が成長した。アメリカでは、プロテスタントが働き、フォードの車や家電が大衆に普及し、世界で最も豊かな国が生まれた。20年には禁酒法が成立し、まるでモスレム国家のような倫理国家になった。
 その頃、信心深い大統領が次々に現れた。ウイルソン大統領は、熱心なプレステリアン派のプロテスタントであって、独占に反対し、競争原理が機能する、小企業から成る経済社会を創ろうとした。
 

 彼は、熱心に働き、質素な生活を送り、貯蓄に励んだ人が企業を起こし、所得を増やしやすい経済環境を整えることが、大統領の仕事だと信じていた。また、世界平和のために国際連盟を創り、アメリカを加盟させようと死ぬまで努力した。
 経済が繁栄を極めた25年頃の大統領は、敬虔なプロテスタントのクーリッジであり、工場が寺院であり、作業が礼拝であり、ビジネスは尊い仕事だと述べたという。
 大恐慌が到来した時、大統領だったフーバーは熱心なクェーカー教徒であって(クェーカー教の教義はプロテスタントとほぼ同じ)、無駄口を叩かず、土曜や日曜も、散歩さえせずにひたすら働き、クリスマスでも朝早くに出勤し、彼の経済倫理を貫いた(当時当たり前の経済倫理だった)。それは不況が深刻なっても、政府は財政規律を断固守って赤字を出さず、関税を引き上げて産業を保護し、金の流出を防ぐために金利を引き上げることだった。経済学者の通説によれば、もし、彼が正反対の政策を実施しすれば、大恐慌を避けることができたという。
 29年から32年にかけて、未曾有の大恐慌が発生し、3600の銀行が倒産し、失業率は40%を超え、GDPは半分に落ち込み、食えない大衆が激しいデモを繰り返した。鎮圧のため、軍隊が出動した。後にアメリカの日本占領軍総司令官になり、日本を民主化したと言われているマッカーサー元帥は、このとき、4台の戦車と200騎の騎馬隊を引き連れ、サーベルを抜いて、約8000名のデモに突入し、蹴散らした。
 アメリカ経済は需要不足と過剰設備に苦しんでいたので、プロテスタントの節約・勤勉は有害な倫理に変わった。自由競争を続けると、設備過剰に陥ることが判った。

 

7. 混合経済国家・アメリカの繁栄

自由な市場経済の時代は終わったのだ。30年代から70年代の始めまでは、国家が経済活動に深く介入する時代だった。日本やドイツでは、大恐慌を克服する過程で独裁・軍事政権が生まれ、戦時経済体制に移り、敗戦後には、政府が主導して、経済復興と高度成長が達成された。ソ連では、計画経済が成功し、60年代に、宇宙開発でアメリカを遙かにリードした。
 アメリカでは、ルーズベルト大統領が32年にニューディール政策を実施して、自由経済から混合経済に変わった。ルーズベルトは、毎日曜日の夜、ラジオでまるで牧師のように、政府を信ずるように話しかけた。この夜話が効いたようだ。国民は安心して、預金を下ろさなくなり、銀行の取り付けが激減した。
 沢山の政府機関が新設され、公共事業が拡大した。産業規制が強まり、農業等の一部の産業では価格が統制され、利益が保証された。労働基準法が制定され、労働組合の権利が強まり、賃上げストの権利が認められた。また低所得者や老人に対する社会保障が始まり、禁酒法は廃止された。アメリカはまるで社会主義国家へと変化し、実際、マルクス経済学が広がり、アメリカ共産党も生まれた。
 国家は貧しい人を救し、企業の自由な活動を制限した。宗教は阿片のように有害だと主張するマルクス主義者が増え、神を冒涜する時代になった。
 過剰設備は2次大戦が始まると間もなく解消しフル操業に入った。戦争が終わると間もなく、米ソの冷戦が始まり、政府機関や大学から共産主義者が追放され、軍事産業が強大になった。ニューディール政策時代に設立された行政組織はそのまま残って既得権化し、大統領でも監督不可能になり、官僚機構は硬直化していた。
 大戦後から60年頃まで、戦時中に抑制されていた需要が噴出し、また軍事技術が民生用に転化されて新製品が生まれた。アメリカ経済は高成長を続けたので、大き過ぎる政府に対する不満が起きなかった。
 経済政策の中心は細かい規制から、マクロ経済の管理に移った。ケインズ政策が実施され、景気が微調整され、変動幅が少ない順調な経済成長だった。ほぼ完全雇用の状態になり、中産階級が拡大し、広い庭と芝刈り機がある豊かな社会になった。

 

8. 高賃金の苦しみ

アメリカの経済力は、世界で飛び抜けて大きかった。67年頃まで膨大な貿易収支黒字が続き、世界の他の国は貿易赤字に苦しんだ。アメリカは、主要国に対してドル資金を貸し付け、またドルによる直接投資を続けた。日本や西ドイツ等、自由主義圏の工業国は、アメリカへの輸出、アメリカからの技術輸入や投資によって経済力が強まり、国際競争力が高まった。
 アメリカ経済の問題は高賃金にあった。ベトナム戦争が激しくなると、軍事産業では人手不足に陥り、労働組合の賃金引き上げ要求が全産業に及んだ。その結果、景気が後退しても、賃金が高止まりし、70年頃には、企業は、賃金コストが高すぎるため低収益に苦しみ、設備投資意欲を失った。つまりスタグフレイションに落ち込んだのだ。財政赤字は増加の一途を辿り、同時に貿易赤字は急速に拡大し、アメリカから、夥しい量の金が流出した。
 ニクソン政権は、この経済危機を乗り切るため、71年に、金とドルとの交換を停止し、かつ物価と賃金を90日間凍結するという「ショック」な政策を決定した。これによって、政府は副作用の心配をせずに、財政支出を拡大して、景気を刺激できるはずだった。
 しかし、失業率は一向に低下せず、物価は上昇し、輸入が増加の一途を辿った。ニクソン政府は、73年に為替レートを固定相場制から変動相場制に転換して、ドルを切り下げた上に、再び物価統制を実施した。
 そうした時、石油危機が発生し、74年には消費者物価が13%、失業率は9%に達した。アメリカ経済は深刻な危機に落ち込み、混合経済体制では立ち直れないことが判ってきた。

 

9. 市場経済の謳歌

世界の中で、混合経済から市場経済へ華々しく転換したのは、経済が壊滅寸前の状態にあったイギリスだった。サッチャー首相は、79年に就任すると、間もなく、炭坑労組との激しい戦で勝利を収め、しばらくして炭坑、航空、鉄道、空港、港湾、電話通信、電力、ガス、水道等、国営企業を次々に民営化して、経営の効率化と賃金抑制に成功した。
 サッチャーは自由主義思想の代表的経済学者であるハイエクの名著「隷属への道」を熟読して、混合経済の徹底的な打倒を決意したと言われる。ハイエクは、民主主義的な投票による決定さえも、多数による強制だと考え、経済活動に対する国家の介入を蛇蝎のように嫌った。責任ある個人の合理的行動こそ、効率的な経済の源泉だと考えた。。
 アメリカでは、国営・公営企業が少なかったが、ニューディール以来、細かい規制と多くの規制機関が網の目のように張り巡らされていた。80年に登場したレーガン政権によって、それらは緩和・撤廃された。航空、電力、長距離電話、鉄道、トラック輸送等の産業では参入が自由になり、独占状態だった巨大企業は分割され、自由競争の条件が整えられた。企業経営が効率化して、価格が目立って低下した。
また、警察や刑務所が民営化され、戦場では、民間会社の社員がハイテク兵器を操作し、また作戦に必要な情報収集に当たるようになった。軍隊も民営化が進んだ。
 金融業では、99年に銀行と証券業との兼業を禁止するグラススティーガル法が撤廃され、貸し付け債権の証券化が進み、金融業がアメリカの主要産業に成長した。この撤廃が後に住宅バブルを引き起こす原因になった。

10. 新古典派経済学の天下と首切り

混合経済から市場経済への転換とともに、経済学の主流がケインズ経済学から新古典派経済学に移った。新古典派は、すべての人は、利己心(自分の幸福や利益だけを考える)に基づいて、最大の所得や富を得ようと「合理的」に行動するという前提で、理論が構築されている。
 ケインズ政策では、景気後退期には、財政赤字を恐れずに公共事業を拡大して、需要を増やすべきだ考えた。しかし新古典派によると、財政赤字が拡大すると、将来、大型増税があるという「合理的期待」が生まれ、多くの人は、それに備えて消費を節約するはずだ。従って、公共事業を拡大しても、景気は刺激されないというのだ。つまり、ケインズ政策は効かないのである。混合経済が70年代に破綻したのは、ケインズ政策の失敗を証明しているという。
 新古典派は、自由な市場にすべてを任せれば、景気変動の巾は狭くなり、最適な成長路線を辿れるはずと考えた。政府は、市場が下した決定に干渉してはいけない。何もしない方がいいというのだ。
この考え方の背景には、国家は国民に対していかなる強制も加えてはいけないという哲学がある。企業も個人も、市場の取引で最高の利己利益を期待して合理的行動を起こす。経済が成長し、社会の利益が拡大すると、自己利益も増大する。自己利益を最大にする行動には、経済社会の質的・量的発展が考慮されている。つまり合理的行動は伝統的な倫理に影響されており、それは政府の判断より遙かに優れているというのだ。
 新古典派によると、企業は不況期には合理的期待に基づいて、人員整理や賃金カットを実施する。労働者は合理的期待に基づいて、その企業に勤めたが、遂に整理された。しかし、そうした行動が集積された結果、賃金水準が低下し、企業利益が向上して、投資や雇用の拡大が始まり、景気が上昇する。景気変動がスムースに進むのである。その際、貧困に落ち込む人がいても、市場経済が機能した結果であって仕方がない。
 カルビン派は、貧困は神の決定であり、宿命的だと考えた。新古典派経済学によると、失業はすべての人が合理的な行動をとった結果であって、市場経済の宿命である。企業がそういう考え方に立つと、良心の痛みも感ぜずに、遠慮会釈なく、解雇を断行できる。所得格差が広がっても少しも苦にならない。
 日本でも、90年代の終わりから、非正規雇用が増え、リーマン・ショック後には、非正規雇用者の多くが解雇された。
 新古典派はプロテスタント・カルビン派と気持ちが通じ合うから、アメリカで目覚ましい勢いで進歩した。人々の心理や期待に働きかけるマクロ政策手段が重要になった。
 なお、リーマン・ショック後、市場経済理論に対する反省が一挙に高まった。 以上

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