価値総研「Best Value」

2011年10月

地震・津波・原発と日本人

1.  冷静

2011年の3月の日本は、大津波と原発の喪に服しているようだ。春の甲子園選抜大会は黙祷で始まり、満塁ホームランを打った選手は高ぶる気持ちを抑えて、静かにホームを踏み、応援団は笛や太鼓を慎み、拍手に止めた。選手も応援団も大震災の悲しみを分け合った。全国各地でイベントが自粛され、私の母校の同窓会も中止になった。

ニューオルリンズやハイチ等、世界の災害地に派遣され、今回、日本の災害地にやって来た外国人記者の多くは、いずれも、日本人の忍耐力とモラルの高さに驚嘆し、賛美する記事を送った。

東北の被災地では、数百の避難所の狭い空間で、肉親を失い家も家財も流されてしまった人達が、苦痛に耐えて、取り乱すことなく秩序だった共同生活を続けていた。緊急食料を受け取るために、延々と続く長い行列が出来たが、順番を乱す人がいなった。避難所の中は、大勢の人が、プライバシーのない生活を送っているにも拘わらず、整然と片付けられ、清潔であり、盗難も殆どなかった。

震災の日に東京にいた外国人記者は、すべての電車が止まったにも拘わらず、市民生活が殆ど乱れなかったのに驚いた。

東京では、帰宅難民が300万人に達した。道路は数時間をかけて、黙々と家路を辿る人で溢れ、帰れない人には、都庁、大学、デパートが開放された。デパートでは、階段に腰掛けたり、床に寝ころんでいる人達に、深夜、毛布や乾パンが配られた。

一時的に、牛乳、ヨーグルト、水が不足したが、それに乗じて値上げして、大儲けしようとする店はなかった。1人一本という制限をもうけ、普段の価格で売った。人々は、震災直後の計画停電にも、電車の間引き運転にも、文句も言わずに、不便に耐えた。

数日すると、新宿駅を始めとする鉄道の拠点駅では、所狭しと大勢のボランティア集団が屯して、震災義捐金集めに声を嗄らした。彼等は、現地へボランティア活動に行きたいが、現地に受け入れ余地がないので、やむなく、募金活動に熱中した。

5月の連休に、東京では、ボランティアの申し込み開始時刻の10分後には、定員が一杯になった。交通費と滞在費を自己負担して、ボランティアが続々と、被災地に向かった。

2.  同胞意識の再生

オーナー企業家やタレント・プロスポーツ選手は争うように大金を寄付をし、ソフトバンクの孫社長は100億円を出した。殆どすべての人は、勤め先の企業や属している組織で寄付をし、かつ街頭でも寄付に応じた。

表参道など都心部の盛り場では、福島県や茨城県の野菜の直売市場が開かれた。人々はまだ放射能汚染の事実を知らなかったので、農民に同情して買った。何れの場所でも、例年の直売市場の3倍近くも売れたそうだ。

被災地では、市役所や町役場がそっくり流失し、職員が死亡して行政能力が失われた。自衛隊や全国の自治体が救援に向かった。

自衛隊・10万人が緊急出動し、人命救助、水や食料の輸送、遺体捜索、原発への放水等で大活躍し、全国の自治体は医療・看護、物資搬送、上下水道の修理等の専門ティームをまず緊急派遣した。

その後、自治体の派遣職員は、避難所の運営・移転、高齢者・病人の介護、遺体の収容や死亡者の確認、仮設住宅の割り当て、住民の移転先の把握等、地元職員と一体となった仕事に就き、派遣期間が長期になった。管政権の対応の遅れと対照的だった。
 私たちは茫然として、買い物や旅行をする気になれなかった。私たちが節約すると、その資源が被災地に回るように思われ、消費を削った。そのため、個人消費が大幅に低下し、東京の百貨店では、売り上げが例年より30~50%も減り、自動車の販売台数は35%も減った。

個人消費が縮小すると、景気が下降して、雇用と税収が減り、救済・復興の資金が不足するから、国民は自粛を止めて、遠慮せずに消費すべきだと主張するエコノミストがいたが、その理屈は間違っていた。供給力過剰、需要不足の時には、個人は消費を拡大して、需要不足を埋めるべきである。

しかし、大震災が起きた時には、サプライチェーンが寸断されて、供給力不足が発生している。また原発事故によって、当分の間、電力不足になり、製造業では、供給力不足状態が長引くだろう。そうした時、消費が拡大し、需要が伸びれば、インフレが昂進して、経済が混乱する。個人が節約して、消費を抑え、需要を減らすのが、正しい行動だった。

私たちは、未曾有の災害の中で戦後長らく忘れ去られていた、痛みを分かち合って、国難を乗り切ろうという同胞意識が目覚め、国民の心が1つに固まった。

3.  犯罪の減少

日本人は、昔から立派だったわけではない。関東大震災の時には、遺体の指や腕が鋭利な刃物で切られて、指輪や腕時計が盗まれた。
朝鮮人が暴動を起こすという風評が広がり、関東地方から中部地方にかけて、数千人の朝鮮人が虐殺され、アナーキストの大杉栄も幼い甥とともに殺された。

明治と昭和の三陸津波では、被害を免れた家が強盗に襲われるという事件が頻発した。

今回でも、津波で運ばれた瓦礫の中の金庫が明けられたり、福島・原発事故で避難した無人の家にこそ泥が入ったと言う事件が幾つもあった。災害地には、人通りが少なく、また警官が不足していた。

しかし、被害が大きかった東北3県では地震後の犯罪率が前年比で、20%ぐらい減少したという。災害地は混乱していたから、犯罪率統計は正確とは言えないが、戦前の日本より、遙かに、モラルが向上したと言えよう。

その最大の理由は所得水準が向上し、かつ平等になったことだ。所得水準が上昇すると、どの家庭でも、日用品の所有量が多くなり、災害に遭った親戚や近所の人に、衣類、寝具、食料等を与えて、助けることが出来る。

つまり、震災後、直ぐに、飢餓や凍死状態に陥る人が少ないので、犯罪の動機が減るのだ。 また、所得が平等になると、盗む人と狙われる人の所得が似ているので、窃盗が起きにくい。

日本人には忍耐力があり、また和を尊ぶ気持ちが強い。日本列島は深く海に沈み込む断崖の端にあり、その下では3つの大プレートが重なり、押し合って、列島に歪みを与え続けている。日本は、世界で最も自然災害が多い國であって、日本の何処かで、ほぼ十数年ごとに大地震が起き、三陸海岸では最近の100年間で4回も大津波に襲われた。

鴨長明は、この世は「うたかた」だと言い、吉田兼好は「世は定めなきこそ、いみじけれ」と述べ、無常であることを強調した。私たちの無常観は歴史的に形成され、自然災害に狼狽せず、助け合って生きてきた。

その上、所得水準が高く、かつ平等になり、さらに、機動力に優れた自衛隊、独特な物流システムをもつコンビニ等、災害時に活躍する組織が発展した。災害時には、直接的な被害さえ受けなければ、誰でも生きていける。犯罪に走る必要はなかった。

4.  伸びきったサプライチェーン

私たちは本能的に日本経済の危機を知り、助け合わなければ、そこから離脱できないと、うすうす感じていた。
神戸・淡路大震災は16年前に発生した。その時と、東日本大震災が発生した時とを比較すると、デフレ経済が進行して、名目GDPは490兆円から480兆円に減少した。政府は景気刺激のため、財政支出を拡大し続けたので、國と地方の借金は370兆円から870兆円に膨張し、世界1の財政赤字国家になった。65歳以上の人口は、1800万人から3000万人に増え、世界1の老齢国家である。
 一人当たり国民所得は世界2位だったが、今や23位にまで転落し、シンガポールに抜かれ、台湾、韓国が迫っている。
 労働人口が減り、年金生活者や介護老人が増加している。災害地では、復興の担い手になる壮年層が不足し、住民が去り、荒れ地になるかもしれない。
 製造業の大企業は、急拡大する中国の現地需要を求めて、量産品の主力工場を移転し、国内では主として高級品を生産するようになった。しかし、その高級品市場でも、韓国や台湾だけではなく、中国の追い上げも激しく、国際競争力が低下していた。
 日本の企業は、生産性を高めるために、生産のアウトソーシングを進め、またIT技術を駆使して、在庫水準を極限まで減らした。そのため、サプライチェーンが複雑になり、細く伸びきっていた。そうした時に、大震災が発生し、福島原発の事故が発生した。

5. 中国の軍事的発展

ところで、世界経済や政治を展望すると、中国のプレゼンスが高まり、アメリカの影響力が低下している。アメリカは、イラクやアフガンで累計で1兆ドルを超す軍事支出費を投入して、10年間戦った。重い軍事負担のため、財政赤字と貿易赤字は拡大の一途を辿り、ドルは安くなる一方だ。

アメリカ政府は、財政支出を減らすため、中東地域からの軍事的撤収を決め、またスペース・シャトルを中止した。

これに対して、中国では、経済の高成長とともに税収が増大してるので、軍事力が増強の一途を辿った。中国海軍は、南太平洋やインド洋では、アメリカと制海権を争うようになった。また、中国は、中東やアフリカの資源国で莫大な開発投資を行い、世界的な影響力が強まる一方だ。

日本の企業は中国の膨大なマーケットを狙って、現地に新鋭量産工場をつくっている。しかし、間もなく、多くの中国企業が日本の技術を吸収して生産を開始するから、日本企業は、もっと新鋭な工場をつくり、競争力を高めざるを得ない。日本企業は新技術を開発し続けなければならない。

考えてみると、日本企業が中国経済の発展に協力し、中国が軍事大国になった。中国への資本進出が続き、高級部品や素材を供給し続ける限り、日本は中国に必要な國であり、現在の対米依存の安全保障も守られるはずだ。

日本の製造業は、韓国や台湾の企業との競争に敗れず、また中国経済と共存するためには、新製品の開発と高品質化が必要だ。ところが、日本経済が成長力を失い、製造業の企業が弱くなってきた時期に、東日本大震災が発生し、伸びきったサプライチェーンがズタズタになり、生産が縮小して、日本製品のマーケットは、韓国、台湾、中国の企業に浸食されそうだ。

6. 現場の強さ

日本企業は危機に立つと、冷静になって伝統的な強さを発揮した。大破した工場が本社の協力によって、震災の3週間後には、生産を開始したという例が多い。工場が復興する過程は、次のように要約できる。まず、第1に、中部地方や関西地方で物資を調達し、大型トラックに積み、被害を受けた従業員に緊急援助を行い、また全従業員に、充分な食料と水を補給して、生活の不安を除いた。

第2に、従業員は、運転していた機械設備や製品を熟知していたので、倒壊した倉庫から使用可能な製品や部品を選び、また修理可能な機械・設備を選択し、修理した。

第3に、工場再建のレイアウトが固まると、工場長は、本社に、土木、建設、機械修理の専門家の派遣を要請した。設備が崩壊して、生産不可能になった製品については、他の工場に生産を移すか、他工場から設備を移転するかを相談した。つまり、現場が中心になって、再建計画がつくられ、実施された。

第4に、中小企業では、災害を免れた企業が、災害を受けた企業に対して、工場の1部を生産に利用させるといった助け合いがあった。製造業では、細かい技術や技能が摺り合わされ、積み上げられて、優れた製品が創られるが、その際、周辺企業の関連技術とテンポを合わせ、生産する。したがって、災害の際には、関連した企業が助け合うことが出来る。

日本企業は驚異的なスピードで工場を再建しつつあり、震災半年後には、生産能力は90%以上のレベルに回復できそうだ。世界はそのスピードに驚いた。

ところで、東電の福島・第1原発がメルトダウンし、大量の放射能を排出し、被害が拡大していることが判ると、自治体は、定期検査終了後の原発の再稼働に激しく反対し、電力不足が始まった。

製造業の企業は、早朝出勤・早番帰宅、土日出勤・水木休日という勤務態勢に変え、照明を暗くし、冷房温度を高くする等、いろいろな方法で、節電に努めた。クールビズが一挙に普及し、照明はLED電灯に変わり、蓄電池付きの家電が増えた。ピークにおける電力消費を減らすために、蓄電池の利用が増えた。鉄道では、昼間の電車の本数が減り、冷房温度が上がった。

政府の電力対策は、腰が定まらずに、揺れ動いているが、企業や国民は冷静に耐えている。国難意識が最も弱いのは、政治家のように見える。

7. 原発を巡る思想対立

大型な新技術製品は大事故を起こし、その大事故が技術進歩を促進し、安全な製品が生まれるものだ。豪華客船ではタイタニック、大型飛行船ではツェペリン号、超音速旅客機ではコンコルド、宇宙ロケットでは、チャレンジャー号、コロンビア号等が大事故を起こしたが、改良を重ね、現在では、いずれも安全な輸送手段となっている。

原子力も例外ではなかった。今までしばしば大事故が起り、その都度、原子力発電は危険だという意見が拡がったが、それらの事故は、判断ミスや操作ミスが重なったもので、何れも小さなトラブルで済むはずだった。

主要国では、設備装置を改良し、操作員を訓練すれば、原発事故を防止できると判断した。しかし、日本は原爆を投下された特殊な國であり、2つの相反する信念が拡がっていた。1つは反原発の原理主義者であって核の利用は危険だけではなく、それ自体が悪であると信じ、激しい反原発運動を展開した。

もう1つは原発賛成論者である。彼等は、反原発・原理主義者といくら議論しても、妥協点を見いだせないと思っている。原発はエネルギー源を多様化して、石油依存の弱みを克服するため絶対に必要である。また原発技術が進歩して、安全性が高くなったと確信した。彼等は原発が安全であることを装うために、各地の原発では小さな事故が頻発したが、ほとんどすべて秘密にされ、本格的な事故対策を立てなかった。

ところで、70年代には、原子力に関する日本とアメリカとの技術格差は大きかった。日本政府は、アメリカ企業が設計したという理由で、原発の安全性を信じていた。福島第1原発・1号炉と2号炉は、日本で始めての大型原発であり、何れも主契約者はGEであって、日本企業はその下請けに過ぎなかった。

原発の事故対策のポイントは、非常用ディーゼルによって水を炉心に送り、燃料棒を冷却し続けることだ。アメリカで想定される大事故は竜巻に襲われることであり、そのため、非常用ディーゼルは地下に設置され、福島原発では、そこを津波に襲われた。

福島原発では「安全」であるから、電源車、放射線防護服、重機械、作業用ロボット、放水車等、事故に対応する機器を用意しておらず、また従業員訓練は、不十分だった。

8. 原発の出生の秘密

こうした思想対立は、日本の原発の出生の秘密と深い関係があった。最初の原発である東海発電所は1966年に建設された。それはイギリスが開発したコールダーホール型であって、プルトニュームの生産が目的であり、その副産物として発電をした。60年代に原子力船むつの建造計画がまとまり、また濃縮ウランを生産する研究が始まった。

これら一連の計画は、日本が、将来、原爆、原子力潜水艦、水爆等の核兵器を生産することを予想させた。最近、政府の古い公文書が公開され、佐藤内閣が、核武装を検討していたことが明らかになった。東海発電所は核兵器の生産に必要な施設であり、反核主義者は核武装を恐れた。

この発電所が計画された時、日本原子力産業会議は、安全性を検討した「檜山レポート」(委員長が檜山東大教授)を作成した。それによると、想定外の原因によって発電炉が暴走し、かつ強い北風が吹いていたならば、東京は緊急避難地区になる。このレポートが公表されると原発計画が頓挫するから、極秘扱いになり、金庫に厳重保管された。

IAEAの第2回総会が63年にジュネーブで開催され、私は日本代表団に加わった。

外務省から、日本の核武装について質問されるだろうから、外国人に近寄るなというきつい達しがあり、私達の情報発信は管理された。
田中内閣以降、核武装計画が消えたが、1970年代の石油危機の経験から、エネルギーの中東石油への依存率を低下させるために、原発の必要性が高まり、エネルギー供給の30%程度を原発に依存する長期計画が立てられた。東電の福島発電所の1号機(71年建設)以後、続々と大型原発が建設された。

9. 安全神話の創造

反原発・原理主義者に対抗するためには、まず安全神話が必要だった。計画された原発毎に、予想される最大地震の大きさを決め、また大津波は発生しないという前提が立てられ、この前提に関しては議論しないという「業界常識」が形成され、すべての原発は安全になった。

しかし、大地震が発生する可能性は、1990年代の後半から指摘された。地震学者は9世紀に東日本で発生した貞観地震がM9に達し、10数メートルの大津波が発生した痕跡を発見し、警告を発した。原子力安全基盤機構では、15メートル以上の津波に襲われれば、すべての電源はストップするという報告書を纏めた。

しかし、1000年に一度の確率で発生する大地震に対しても、安全な原発をつくると、コストが非常に高くなる。それは、1000年に一回の大洪水に耐えるスーパー堤防をつくると同じように、合理的判断とは云えない。採算的な原発をつくるのは、想定外の大地震も、大津波も起きないという確信が必要だった。

経産省はエネルギー資源を安定化するために、大型原発の建設を進めたい。電力会社は、原発について、1,住民の反対運動が強く、建設期間が長くなる、2、投資額が大きいので投資効率が悪い、3,事故の時の補償額が巨額になる等の欠点があり、賛成ではなかった。そこで、経産省は、原発立地の自治体に対して、巨額な交付金を支払い続け、また天災による事故には国家が補償することを決めるなど、電力会社が建設しやすい環境を整えた。

電力会社は、監督官庁の経産省に反対できない。送配電事業を総合的に経営し、かつ地域独占という特権を与えられているからだ。電力会社は、財界で強い立場を築いている。

まず、電力の独占的供給者であるから、顧客に媚びる必要がない。
次に、巨大な産業であって、殆どすべての業種に対して買い手として登場する。ある企業が電力会社を批判すると、取引量を減らされる可能性が大きい。

経産省と電力業が協力すれば、原発建設の速度が速まるはずだ。2000年代になると、省庁再編成が一段と進み、経産省は原子力に関連する権限を集中的に握り、原子力の振興と原発の安全規制という相反する機能を持つようになった。

10. 情報の管理

原子力産業会議では、1980年代からしばしば、専門家を集めて、原子力事故に関する情報の扱い方についての研究会をつくった。その結論は、何時も、「事故が発生した時直ちにそれを発表すると、無用な混乱が起きるから、まず事故の原因を厳密に調査し、発表はその後にすべきだ」ということに落ち着いた。

今回の事故でもこの考え方が見事に踏襲された。原子炉を冷却する最後の命綱と言える非常用ディーゼルが動かなくなったので、専門家は、燃料棒が溶融する大事故を予想したはずだ。しかし、安全保安院は「安全である。念のため近くの人は避難してくれ」と言うだけだった。

燃料棒が溶融したという確証がないから、不安を煽るようなことは云えないというのだ。しかし、実際には、事故後間もなく燃料棒は融解して、格納容器の底に達していた。

海外諸国は、こうした成り行きを見て、日本政府が情報を隠していると感じ、多くの外国人が危ない日本を去り、またすべての日本製品は汚染されていると誤解された。日本人のマスクは放射線避けだと報道された。

福島県や宮城県では、市町村や集落毎の被曝量の予測や測定値の公表が遅れ、放射能被害が、野菜から肉牛にまで拡がっている。原子力に係わる秘密体質は、大きな問題を残した。

振り返ってみると、原発事故の根本には、イデオロギー対立が生み出した原発関係者の秘密体質にあったと云えよう。もし、情報が公開され、透明性が確保されていたならば、原発の耐震、耐津波能力は高まり、また、事故対策も充実していたに違いない。そうしなければ、住民が原発の運転を許さなかったはずだ。

現在、原発の再稼働を巡って、イデオロギー論争が続いている。禍根を繰り返さないためには、情報を完全に公開して、議論を尽くすことが必要だ。 以上

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