価値総研「Best Value」

2009年11月

強いアメリカの3大産業 ~大学産業~

無機質な経済学と移民の活躍

アメリカは、自然科学でも社会科学でも、世界で抜きん出ており、それが覇権国家の地位を保つ力の源泉である。アメリカの大学は研究環境に恵まれ、多数のノーベル賞学者を生んでいるだけではなく、優れた研究成果を挙げれば、民族、人種に差別がなく、学会や経済界で良い地位が得られるので、新鋭の学者が次々に生まれる。世界の頭脳が、大学の魅力に惹かれてアメリカに集中しし、アメリカの大学の研究レベルは一層高まるのである。

経済学を例として考えてみよう。経済学には、いろいろな学派があり、文学のように豊かな感情が込められているマルクス経済学から無味乾燥な数式が展開される新古典経済学まで多様である。

アメリカでは、1970年代後半から、新古典派経済学が主流になった。この経済学の原理は分かりやすく、世の中は、つぎのような欲深い人ばかりから成り立っていると考える。
 すべての個人は、最も高い賃金で働き、最も多く楽しめる消費財やサービスを最も安く買いたい。またすべての消費関連の企業は最も低い賃金で人を雇い、消費財やサービスを最も高く売ろうとするとしている。設備投資をする企業は、機械設備を最も安く買い、設備機械を造っている企業は、最も高く売りたい。
 労働力、消費財、サービス、資本財などの価格は、こうした需給関係によって決まり、価格が高くなると供給が増え、需要が減って価格が低下する。また、この4つの要素の価格は相互に影響し合っている。現実の経済は複雑であるが、多様な商品やサービスの需給関係は市場を通して価格に反映され、またその価格が新しい需給関係を生み出している。この観点に立って、現実の経済を単純化したのが経済モデルであり、それは、普通、数式の体系になる。
 経済活動はいろいろな側面から考察できるので、多様な経済モデルが造られている。経済モデルによって、経済の理解を深め、また実験することもできる。例えば、政策の効果を予測したいという場合には、政府部門の機能が明白に現れる政策モデルを造る。例えば、政府が赤字国債を多く発行して、公共事業を拡大した時の効果はどうかといった問題を考えるためには、特殊なモデルが作られる。
 そのためのモデルでは、金利、為替レート、輸出入額が重要な要素として組み込まれ、公共事業を中心とした財政支出の増加が景気に対して与える効果について、次のようなプラスやマイナスがコンピュターを使って計量的に推定される。
1,プラス効果として、建設業、鉄鋼業等の産業の生産が刺激され、雇用が拡大する。
2,マイナス効果として、つぎの3点がある。
イ、国債が増発され、金利が上昇するので、設備投資が減少する。
ロ、金利上昇とともに、海外資金が流入して円高になり、輸出が減少する。
ハ、個人は将来、国債償還のために、重税を課せられるから、消費を減らす。
 最近では、マイナスの効果が、どの程度、プラスの効果を打ち消すかが、エコノミストの関心になった。
 新古典経済学では、 経済学の用語がしっかり定義され、数学的に表示できる。それぞれ多様な、財、サービス、生産要素(資本と労働)との関係は、複雑な連立方程式で表示され、数学的演繹によって導かれる。経済を動かすのは、最大の利益を狙って合理的に行動する人間だと決められている。人間には情に絆されて非合理な行動を起こす人が多い。すべての人が、「お金に釣られて」行動すると決めつけるのは、あんまりである、
 しかし、新古典経済学の学者は、仮にそのように定義し、経済モデルを作成しただけであり、ムキにならないでくれと言う。先の財政拡大の効果について、真面目な市場経済主義者は、公共投資が大規模になると、官僚の力が強くなり、不必要な道路が造られ、倒産すべき建設業者が残り、経済の効率が悪くなる。絶対に大きな政府にしてはならないと言うだろう。
 これに対して、新古典経済学の学者は、大きな政府に賛成も反対もしていない。公共投資の効果を測定して、国債発行が多い時には、予想外にマイナスの効果が大きいことを指摘しただけだと述べるに違いない。
 新古典経済学は、倫理感を克服して、専ら理論的に、数学的に論証しようとするのだ。これによって、現実の経済を深く理解し、かつ数学の能力が秀でた人ならば、人種や出身階層に関係なく、間違いなく成果をあげられる。その成果を信用が高い経済専門雑誌に発表すれば、大学教授のポスト、政府機関の研究員、民間シンクタンク等が、高額をもって迎えてくれるだろう。多民族国家に相応しい経済学と云えよう。

市場価格が判断の基準

アメリカの大学の経済学部では講義に教科書が使われている。教科書の種類が多い。サミエルソンやクルーグマン等の大学者も教科書を書き、それがミリオンセラーになっている。アメリカ経済学が世界を制覇し、世界の多くの大学では、アメリカの教科書を使っているから、発行部数が多くなり、教科書は輸出品だ。
 教科書では、無味乾燥な経済学をグラフや表を使って説明して興味を持たせ、豊富な身近な例をあげて具体的に解説し、さらに練習問題まである。読者(学生)が飽きないで勉強するように工夫されている。
 クルーグマンの「ミクロ経済学」は3年前に日本でも翻訳・発刊され、5000円近い価格であるにも拘わらず、経済書のベストセラーになった。それを読むと、アメリカの経済学が前提としている考え方が、私達の常識とかなり違っている場合がある。例えば、この本の「効率性と公正」の章では、実例として航空会社の予約を取り上げている。
 航空会社は、予約客が空港に現れないことが多いので、座席数よりも多くの予約を受け付けている。空席で出発すると、航空会社がそれだけ利益を失うからだ。ところが、予約客がすべて現れ、定員オーバーになった場合には、どうするかという問題がある。解決方法は次の通りだ。
 航空会社は、次の便に変更した客には、例えば、200ドルを支払うと場内放送で告げ、応じた人にすぐ支払う。それでも、予約客がまだ定員オーバーしている時には300ドルに引き上げ、それに応じた人に支払い、つぎには400ドルにする。もっと変更価格が上昇するかもしれないと待っていた予約客は、定員に達すると、期待はずれになる。
 それはつぎのような考え方に基づいている。乗客は予約によって座席の所有権を得た。予約客が定員をオーバーした時には、航空会社が、座席の所有権をオークションによって購入するのである。予約を売却した顧客は満足し、予約を購入した航空会社は座席が満席になる。過剰な予約と予約権のオークションとの組み合わせによって、航空機の利益が増大する。
 確かに、これは合理的解決方法であるが、私達の常識では、航空会社が、座席数以上の予約を受け付けるのは一種の空売りであって商道徳に反するように思われる。予約数は総座席数に止め、溢れた顧客にキャンセル待ちを要請すべきだろう。予約取り消し料をとるのも、1つの方法だ。
 アメリカの経済学では、商道徳を考慮しない。経済の世界には合理性だけが支配していると考える。合理性とは、自由な市場をつくり、そこで形成される価格に従うことである。倫理規範は長い歴史の中でつくられたものだるから、アメリカのような多民族国家では、誰でも理解し納得できる共通な規範が必要である。その1つが市場価格を尊重することだ。
 アメリカでは、他人の評価がまず所得や資産の大きさによって決まるのもその現れだ。移民が多いので、お互いに氏素性が判らない。それが判ったとしても、文化的背景が異なるから、家柄を評価しようがない。これに対して、所得と資産の大きさが、最も分かり易い評価基準であり、都市では、所得の多寡によって住む場所が違っているから、何処に住んでいるかは、人を評価する重要なポイントである。
 巨額な冨を築いた人は、さらに「名を挙げる」ため、大学や美術館等の文化施設や文化的イベントを寄付をして、地域社会に貢献をする。貢献度は、寄付額の大きさによって評価される。アメリカの一流大学や一流美術館の多くは大富豪の寄付によって創られた。
 殆どすべての経済活動やその成果が市場価格によって評価できる社会は、経済モデルによって表現されやすい。アメリカの大学院の経済学部では、学生が、学科毎に分厚い教科書で習い、毎日膨大な宿題をやり遂げると、マクロやミクロの経済モデルをつくる力や、それを利用して実験する力が備わり、その学力は政府機関だけではなく、民間企業でもすぐに役立つ。
 外国人だろうが、移民だろうが、黒人や黄色人種だろうが、才能に恵まれ、かつ努力を厭わない人は、学者やエコノミストとしての高い地位を確保できる。

福音派と大学の棲み分け 

アメリカでは、数理的な経済学が発達した。それには複雑な背景があった。アメリカは工業国の中では例外的な宗教国家であり、最初に移民した人達には、福音主義キリスト教の信仰が深く染み込んでいた。彼等の中にはカトリック教徒の迫害から、信仰を守るために、移民した人が多かった。厳しい自然のなかで、孤独と貧困に苦しみながら、重労働を続けて生き抜くためには、神が必要だった。唯一の本である聖書を繰り返し読み、勤勉に働けば必ず救済されると信じ、農作業に勤しみ、生まれた子供には神の祝福を願った。
 
  東北部と西海岸の一部を除く大部分の地域に住んでいる人は、聖書を通じて神と直接に関わり、信仰を深めれば深める程、人格が高邁になり、正しい判断を下せると信じている。彼等にとっては、信仰は教育より遙かに重要であり、高等教育は無駄だと思っている人が多い。
 信心深い人が多い州や地域では、進化論の授業を禁止し、妊娠中絶を犯罪にしている。大統領候補は過去の不倫がばれた時には、それは福音派の教義に反するので、当選は難しい。大統領候補は、可能な限り高学歴を隠し、専ら信仰の深さを強調する。
 オバマ大統領も例外ではなかった。ハーバード大学出身の学歴エリートであるにも拘わらず、その経歴には触れず、専ら貧しいケニア移民の息子であって、信仰に厚く、ボランティア活動に熱心だったことを強調した。
 福音派の人にとって、大学は聖書に反した思想を研究して教え、人間の判断力を低下させるから、望ましい存在ではなかった。経済学が繁栄するためには、思想と関係せずに、専ら数学的な経済モデルによる分析だけを深める必要があった。それが経済成長に役立つ限り、正当な学問として認められるが、人々に富が重要であることや、投機が必要悪であると教えると、福音派から嫌われる。
 福音派にとっては、新古典派経済学の前提である個人の功利的な行動は、許されるべきことではない。経済学は、思想に踏み込みがちであり、如何に経済成長に役立つと言っても、それは危険であるから、専ら大学の中だけで研究されるべきだった。大学では才能が優れた多数の異教徒や異民族が研究に勤しみ、学会で研究成果が認められれば、良いポストに就き、高給を得て社会的評価が高まるのである。幸いなことに、大学は、熱心な福音派の人と無関係に研究を進めることができた。
 アメリカで活躍した経済学者には、シュンペーター、コンドラチェフ、レオンチェフ、クグネッツ等の大学者を始めとして、外国生まれが多い。ナチやスターリン体制を嫌ってアメリカに移民した経済学者が、アメリカの経済学の基礎をつくり、外国人研究者や移民が活躍した。フランシス・フクヤマ、ダニエル・沖本等の日本人2世や青木昌彦、宇沢弘文のような日本人がアメリカの大学教授として、経済学の向上に寄与した。コロンビア大学の佐藤隆三さんによると、経済学者の名士録(フーズフー)に選ばれている約1000名の中で、外国生まれの人は60%を越している。
 ノーベル経済学賞は、ノーベル賞の中では、最も歴史が短く、1969年から始まり、それはアメリカのモデル経済学が急成長した時期と重なった。現在までの受賞者62名の内、41名がアメリカの大学で研究した人だ。
参考文献 小林由美 「超・格差社会アメリカの真実」日経BP・2006年

新古典派経済学の時代

過去、80年間の経済学の大きな流れを述べ、アメリカ経済学の特色を纏めておこう。
1930年の世界大不況の時には、2大経済学が栄えた。その1つはマルクス経済学であり、自由な市場経済は労働者に「絶対的貧困」をもたらすから、革命が起り、計画経済に変わると予想した。
 もう1つがケインズ経済学であり、政府が財政支出を拡大して需要を創造し、大量な失業者と膨大な過剰設備を結びつけるべきだと主張した。市場経済には、不況が長期化するという欠点があるから、政府が経済に介入して、補強すべきであり、大きな政府が望ましいと考えた。
 2次大戦後、直ちに米ソの冷たい戦争が始まった。マルクス主義は共産主義思想であり、「宗教は一種の阿片」であるから、教会は閉鎖すべきだと主張した。そのため50年代のアメリカでは、マルクス主義者が大学を追放され、自殺に追い込まれたりした。
 50年代から70年代にかけて、ソ連の計画経済は成功したようにみえた。しかし、80年代になると経済が低迷し、間もなくソ連が崩壊して、マルクス経済学は衰退した。
 ケインズ政策は70年頃まで成果をあげ、工業国の福祉水準が向上し、失業が減った。市場経済では、不況になると、失業が増大して、賃金が低下するから、企業収益が回復して、景気が上昇するはずだ。ところが、豊かな國では、賃金が低下すると、働く人がいない。それどころか、労働組合は賃上げ要求を続けたので、不況下でも物価が上昇して、経済は長期間低迷した。アメリカ経済やイギリス経済は危機に落ち込んだ。
 ケインズ政策が成功して、福祉を手厚くし、大きな政府にしたのがまずかった。市場原理を機能を復活させるため、競争制限や労働組合保護を廃止すべきだ。そうすれば、失業が増えた時、賃金が下がる。サッチャー政権、レーガン政権、中曽根政権が相次いで反ケインズ、自由化政策を実施した。
 それとともに、規制が消え、小さな政府になり、市場が競争的になった。それはアメリカ経済学が前提にしていた条件が現実に満たされたことであり、倫理観を排除した数学的な経済モデルを最もつくりやすくなった。
 アメリカ経済は、2次大戦後、目覚ましく発展し、世界の経済や金融の中心になり、大量なエコノミストが必要になった。大学院では70年頃から教科書を使うようになり、毎年数千人以上のエコノミストが政府機関、シンクタンク、金融機関等に供給された。80年代に入る頃には、エコノミスト数は10万人に達したという。
 猪木武徳さんによると(「大学の反省」)、アメリカでは企業の部課長クラスの61%が大学院卒である。日本では僅か2%に過ぎない。金融機関では大学院を卒業した人は、高度な金融工学を駆使して多様な証券化金融商品を開発し、80年代後半から、2006年頃までは、アメリカ経済の成長をリードした。経済学を学ぶ層の厚みが増し、エコノミストのレベルが向上した。

 

アメリカの大学の世界制覇

私達の常識では、経済学は「経世済民」の学問であり、人々が働き甲斐のある仕事に励み、平等で文化的な生活を送れる方法を研究するはずである。つまり、天下国家を論ずる学問だった。
 私が経済学の学生だった時には、教科書がなかった。その理由の1つは当時の日本が貧しかったので、教科書を作ったとしても、発行部数が少なく、採算に乗らなかったからだろう。もう1つの理由は、国家天下を論ずる学問には、教科書がないには当然だ。「経世済民」を達成するためには、経済の理論だけではなく、歴史、文学、哲学を総合的に学ぶために、多くの分野の本を沢山読まなければならない。経済学は総合的な思想の学問であって教科書に頼るような視野が狭い学問ではないと考えられた。
 ところが、アメリカでは、経済学は天下国家を真正面から論じようとせず、天下国家のごく一部を無機的な数学的モデルに投影し、コンピューターを使って、政府の政策や企業の意志決定に関わる結論を出している。福音派の人々には、それは単なる計算にしか見えないので、文句を云わず、救済を信じて勤勉と信仰の生活を続けている。都会の大学では経済学者が、異教徒と混じって、世の中に役立つ研究に打ち込んでいる。
 アメリカ人は、移民国家で育っているから、誰でも、外国人との接し方が巧い。移民にはアメリカンドリームに憧れている人が多く、楽観的であって生活に市場原理が持ち込まれても、それがアメリカだと思い、不満を感じない。薪移民の学者も同じであって、旧移民の学者と巧く折り合いをつけ、優れた研究成果を上げさえすれば、高給が保証されるという市場経済原理に満足している。
 アメリカ経済学は、どの民族にも理解可能であり、マスターすれば、アメリカで高給を得られるから魅力的だ。民族を越えて世界に拡がり、どの國でも、アメリカの教科書が使われ、またアメリカの「大学企業」は、グローバル化している。同じ教科書を利用すれば、どの國でも同じ教育が可能だ。教育の画一化によって、教育コストが下がる。それは、経済学だけではなく、他の学問分野でもそうである。
 アメリカの大学は外国に分校をつくり、そこで3年間教育を受け、次いでアメリカの本校で1年を過ごした後、大学院に進めるようにしている。
 世界で最も多くの留学生を受け入れている國はアメリカであり、世界の全大学留学生の20%を、大学院学生だけをみると、実に50%を占めている。大学院では中国、インド、韓国の留学学生が圧倒的に多く、彼等が上位の成績を独占している。新興国からアメリカに優れた頭脳が集まり、その1部はアメリカに残って、学会、産業界、政府機関で活躍し、他の一部は母国に戻ってアメリカ文化の紹介者になる。
 日本の学者の大部分は、アメリカへの留学経験者であり、多くの経済学者は、学歴にアメリカの大学名だけを記載し(日本の大学名なし)、その論文はカタカナ単語で埋まり、参考文献はまず英語の文献から始まり、つぎに日本語の文献だ。日本と中国の経済学者とは、アメリカ経済学の約束事にしたがって、英語で議論している。 アメリカ経済学は確実に世界を制覇した
 アメリカ経済が、リーマン・ショックによって、世界の信用を失い、アメリカの大手銀行やGMは、実質的に一時国営化の状態になったが、アメリカ経済の再建策は、新古典派経済学の理論に沿って展開されている。アメリカ経済学は、倫理観を欠いているから打たれ強いといえる。 以上

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