価値総研「Best Value」

2009年6月

新・路地裏の経済学 世界的大不況の行方と経済再生2
一・東アジアとアメリカの経済50年史

1. 働き盛りだった時代の日本。

云うまでもなく歴史は真っ直ぐに進まない。世界経済をリードする国はしばしば交代するものであって、過去50年における日本を巡る国際経済の歴史を振り返っても、2次大戦後アメリカ経済が圧倒的な力をもっていたが、70年代から80年代前半にかけて、日本が猛烈な勢いでアメリカを追い上げ、一時追い越す勢いだった。90年代になると、日本の勢いがすっかり衰え、再びアメリカの時代に戻った。

しかし、国際経済の自由化が進み、資本や技術が国境を越して、自由に遺贈できるようになると、今度は中国が急成長して、世界をリードしている。また、アメリカが2000年代に入っても、高すぎる成長を続けたので、08年から激しい調整が始まり、世界的不況が発生した。その中で、中国の経済的プレゼンスが一段と高まった。

日本経済の将来を予想する上で、今後中国経済がアメリカ経済に代わって世界を引っ張るのか、或いはアメリカで新しいタイプ市場経済が生まれるのか、やはりアメリカ的市場経済に戻るのかといった点は極めて重要だ。それを検討するために、まず過去半世紀の日本、アメリカ、東アジアの経済的関係を簡単に振り返ってみよう。(前回のレポートと幾らか重複する)。半世紀前の日本経済は伸び盛りだった。50年代から70年代かけてアメリカ経済をひたすら追いかけ、高度成長路線を走った。その頃は若年人口が多く、彼等は日夜を問わず働き続けた。太平洋ベルト地域の工場には最新鋭の機械設備が揃い、農村の中学校を卒業した優れた労働力がそこに集まった。60年代の終わりに、製造業における労働生産性は日本が世界のトップになり、GNPは世界2位に躍り出た。

その頃までの日本経済は景気が上昇すると、輸入が増えて、すぐ貿易収支の赤字に落ち込んだ。ところが、70年頃から、製造業の国際競争力が強まったので、景気が拡大しても、輸出は伸び、貿易収支の黒字が増大した。主たる輸出先はアメリカだった。アメリカでは、65年頃からベトナム戦争が激しくなる、軍需産業が膨張し、軍需産業の賃金上昇が、他の産業の賃金水準を引き揚げた。企業は高賃金を避けるため、東アジア等海外に工場を移転し始めた。それともに国内の設備投資が衰え、製造業の生産性が伸びず、アメリカの経済力は弱まった。

そうした時、日本製の繊維製品やテレビがアメリカ市場に殺到したので、アメリカは貿易収支赤字の拡大に苦しみ、遂に71年にドルを基軸とした為替の固定相場制を放棄し、変動相場制に変わった。

70年代に、2回のオイル・ショックが発生して原油価格が急上昇したので、日本経済は猛烈なインフレに襲われ、また合計でGDPの8%の冨が産油国に奪われた。製造業では、企業が工夫を凝らして製品を軽薄短小型に変え、ビデオ、薄型計算器、小型カメラ、低燃費の自動車等が生産され、素材産業では省エネ化が進んだ。労働組合は経済危機を認識して賃上げを抑え、企業は低収益に耐えた。

こうして日本経済はオイルショックを克服して、10%の高成長から5%の中成長へスムースに転換したが、その過程で発生した過剰生産能力が強い輸出プレッシャーを生んだ。

2. 落日だったアメリカ経済

ところで、その頃のアメリカでは、労働組合の力に押され、賃金インフレが進行した。80年にはインフレ率、失業率ともに10%を越え、経済はマイナス成長に転落した。レーガン政権は厳しい金融引締め政策によって物価を抑え、同時に大型減税を実施した(レーガノミックス政策)を実施した。減税すれば貯蓄が増え、民間の設備投資が拡大し、また勤労意欲が刺激され、経済が成長するはずだった。確かにインフレ率は下がり、内需が拡大した。しかしその内需は日本等からの輸入品に食われたので、失業率は依然として10%の高さだった。

輸入拡大の原因の1つは金利が二桁に上昇したので、世界の資金はアメリカに集中し、ドル高になったことだ。この時期、日本製の鉄鋼、半導体、自動車がアメリカ市場を席巻した。アメリカが最も得意とする自動車産業では、80年頃には日本製がアメリカ市場の20%を占め、日本の自動車生産台数は世界のトップになった。アメリカ政府は日本を激しく非難し、日本政府は非難をかわすために、81年から自動車の対米輸出を自主規制した。ホンダ、日産、トヨタは現地生産に着手した。

日米の経済摩擦は収まらず、日米経済交渉は貿易制限から為替調整や国内政策に拡がった。アメリカ政府はドル高を止めるため、先進5カ国に対して為替市場への介入して要求し(85年・プラザ合意)、その結果、円の対ドルレートは2年間で50%の円高になった。アメリカ政府は、さらに、日本に対して輸出主導型の成長パターンを内需主導主導型に転換することを要求した。貿易収支赤字の原因はアメリカ経済の過剰消費にあるのではなく、日本の過少消費による輸出プレッシャーにあるというのだ。貿易収支は2国間の貯蓄・投資構造で決まるから、日本の内需だけを拡大しても貿易の不均衡は改まるはずがなかった。

不思議なことに、日本政府は、アメリカ政府の無理な要求に応じた(86年の前川リポート)。折から日本経済は円高不況に襲われており、内需を拡大すべき時期だったので、アメリカ政府の期待に沿い、日本銀行は未曾有の低金利政策(固定歩合2,5%)を2年以上も続け、また日本政府は、金融の規制緩和やリゾート法の制定等、設備投資を刺激する政策を実施した。

金融大緩和と設備投資刺激策が同時に進行した結果、大型バブル経済が発生し、地価は東京23区の総額がアメリカ全土のそれに匹敵するほど高騰し、それにつられて株価が上昇した。

90年に、地価抑制のために、日銀は急速な金融引き締め政策を、また大蔵省は不動産に対する厳しい融資規制をそれぞれ実施したので、バブル経済が一挙に崩壊した。しかし銀行は倒産を恐れて不良債権処理を先送りし、その膿が溜まったので、97年から98年にかけて金融危機が起こり、長銀等の幾つかの大銀行が倒産した。

日本経済は10年以上にわたって低迷し続けた。90年代には、製造業では設備投資が低迷し、古い設備が多くなり、半導体や液晶といった先端技術製品でも韓国や台湾との競争に敗れた。90年代の実質経済成長率は1%台に落ちた。

3. アメリカの再生・日本の凋落、

日本経済がバブル経済に捲き揉まれて、不動産投資が膨張している間に、アメリカ経済は立ち直った。その頃西ドイツでは、EUの統合市場が生まれ、90年にはドイツが統一して、周辺地域の需要が増えた。日独両国ともアメリカへの輸出が減った。87年から91年の間に貿易収支の赤字は半減した。90年代中頃からIT革命が発生し、設備投資が盛り上がり、後半の5年間で1,6倍に増加した。生産性は3%も上昇し、経済成長率(実質)は4%を越え、先進国で最も高かった。アメリカのヘッジ・ファンドは、日本経済のバブルが崩壊した後、破綻した銀行、レジャー施設、ゴルフ場等を安く買い、巨額な利益をあげた。
 アメリカの栄光が戻り、湾岸戦争に完勝した。IT景気は2000年に崩壊したが、02年には住宅ブームが発生して、07年まで絶好調だった。日本の1人当たり国民所得(ドル換算)は、80年代終わりには主要工業国のトップに躍り出たが、その後低下の一途を辿り、07年にはアメリカの75%の水準にまで低下した。

纏めると、80年代にアメリカ政府が日本政府に突きつけた円高、内需拡大、金融自由化、規制緩和等の要求に応じたことが、ボディーブローのように効いてきた。日本経済はその10年後にアメリカ経済に引き離された。しかし、私たちは豊かな社会になったので、それをそれを苦にしなかった。それどころか、労働人口が低下傾向に入ったにも拘わらず、80年代から土曜休日、祭日の増加、労働時間短縮を相次いで実施して豊かな社会を創った。しかし労働生産性は伸びなかった。

90年代になると、日本の国内需要は、今後ずっと低迷しそうだという見方が拡がった。製造業の企業は、国内の設備投資を抑え、それに代わって、経済成長力を備えたNIESや中国に子会社や弁会社を設立して工場を移転した。特に90年中頃には、1ドル80円を超える円高になったから、海外生産は急速に増加した。中国の子会社や合弁会社の生産は拡大の一途を辿った。アメリカ政府は90年代後半からドル高政策を実施したので、日本企業のNIES・中国の子会社や合弁会社からの対米輸出が増加して高収益をあげた。なお欧米でも現地生産が進み、例えば、自動車工業では92年からアメリカにおける現地生産台数が、日本の輸出台数を上回った。

2000年代にはいると、間もなく、日本は、所得収支(海外投資による利子・配当収支)黒字額が貿易収支黒字を越える典型的な成熟経済に変わった。
 アメリカ経済は、住宅バブルによる成長が続かなかった。08年から、深刻なバブル崩壊が始まった。

4. NIES時代が来た。

70年代後半、NIESにとって恵まれた国際環境が生まれた。アメリカ経済は高賃金に苦しみ、また日本経済は石油ショックによって国内市場の先行きが暗かった。両国の企業は工場をNIESに移転したので、NIESは外資と外国技術に依存して成長するチャンスが到来した。

80年代にはアメリカが過剰消費型の経済に変わり、また前半の5年間は著しいドル高だった。一方日本は80年代後半、バブル経済に巻き込まれた。その頃、NIESでは重化学工業が成長したので、過剰消費のアメリカに対し、日本に代わって家電製品の輸出を増やすことができた。90年代後半には、アメリカ経済が過剰消費に支えられて拡大したので、NIESや中国は対米輸出を伸した。2000年代に入ると、韓国、台湾はともにハイテク産業が発展し、半導体やパソコンについて、世界の主要な輸出国になった。最大の輸出先は勿論住宅バブルのアメリカだった。NIESの経済成長の特徴について簡単に触れよう。

A、韓国
韓国経済は、60年代に軍事政権が朝鮮戦争後の貧困の中で強力な工業化政策を実施し、70年代に入ると、育成政策は軽工業から造船、電器・電子、自動車、鉄鋼等の重化学工業産業に移った。70年代の石油ショックでは外貨危機に陥ったが、産油国への出稼ぎ労働者の送金によって克服し、80年代には、造船、電器・電子等が保護政策に支えられて、凄まじい勢いで成長した。

90年代には三星、現代、LG、浦項製鉄等の大企業グループが生産設備や高級部品を日本から輸入し、製品を主としてアメリカに輸出し、世界的巨大企業に発展した。それとともに、韓国の主要輸出品目は重化学工業やハイテク製品に変わった。世界の造船企業の売上高ランキング(06年)をみると、現代重工、サムソン重工、大宇造船開発の韓国の3社がトップから3位を占めた。液晶テレビ、液晶パネル、有機ELパネル、半導体・DRAMやフラッシュメモリーでは、サムソン電子がいずれも世界市場20%から40%を占めた。

韓国は建国以来貿易収支がずっと赤字だった。97年のアジア通貨危機の時には、外貨が流出してウォンが暴落し、韓国経済は破産寸前に追い込まれた。この経験から、政府と企業は、貿易収支の赤字を増やさないこと、設備資金を外資の短期資金に依存しないことという2つの教訓を得た。

企業は体力を越える設備投資を止め、内部資金の充実に勤めたので、経済成長率は05年頃には5%台に低下し、貿易収支の黒字が増加した。企業は低賃金を求めて工場を中国などに移転し、また自動車や家電では、大型工場を大マーケットのアメリカに建設した。韓国経済は発展期から成熟期に向かっている。

B,台湾

60年代には台湾政府の重要ポストは、「本省人」(内戦で敗れて大陸を追われた人達)によって占めらた。彼等は大陸反攻の力を蓄えるために、60年代から工業化政策を実施し、重要産業は国営だった。

一方台湾人が民間企業を起こして、日本の中小・中堅企業から技術を導入し、繊維・食料品を主としてアメリカに輸出した。台湾人経営者には親日家が多かったので、日本の中小企業は技術移転に協力した。

70年代に、政府は外国企業に税制上の優遇措置を与えて、外資による機械工業の振興に成功した。80年代になると、大型ハイテク団地の新竹・科学工業園区を建設して、テキサスインスツルメント等を始めとする半導体外資の工場誘致に成功した。外資に刺激されて、国内の電子メーカーが育ち、半導体チップの製造専門企業(ファンドリー)が成長した。

ファンドリーは、海外の大手企業のテレビ、携帯電話、パソコン等のチップを下請け生産から出発した。多品種のチップを受託生産しているうちに、チップの設計計能力が向上し、次第に設計の主導権を握って、受注価格の主導権を握った。

また、コンピューター・ソフトを生産する企業が成長した。例えば、中国企業から新型携帯電話の設計を受注して、簡単に部品をセットすれば新型携帯電話をつくれるという完全な設計図と応用ソフトを渡すのである(注1)。台湾の企業は形式的には下請けであるが、実質的には携帯電話の組立・販売を委託する立場にあり、高収益をあげている。液晶パネルでは友達光電や奇美電子がサムソンやシャープと争い、対米、対中、対日の輸出を飛躍的に伸ばした。賃金が上昇とともに、多くの企業が工場を中国本土に移転した。ハイテク企業の核になる分野は国内に残っている。

C,香港・シンガポール

香港は、97年に中国復帰した。後背地に同じ広東語が話されている広東省を控え、植民地時代から、自由な市場の育成が育成され、中国の貿易港として発展していた。中国南部における流通と金融の拠点になった。

シンガポールは香港と違って、周りをイスラム国家に囲まれた多民族の都市国家だ。同じ中国人の中でも、福建語、広東語、客家語などいろいろな言葉を母国語とする人がいる。独立した時(66年)まず独裁的政権が国家の統一を固め、経済力を付けるため工業化政策を実施した。

工業の基盤が欠けていたので、政府はまず大工業団地(ジュロン)を建設し、労働者を訓練して、電子工業、造船業、石油化学等の国際的企業を誘致した。アメリカ、日本、ヨーロッパの大企業が進出した。軍事大国や経済大国の企業が工場立地している国は、外国から攻撃されないにくい。大工業団地は国家の安全上でも必要だった。

香港とシンガポールは、90年代には、アジアにおける海運、航空、金融の巨大拠点に発展した。コンテナーの取扱量ではシンガポール港が世界1位、香港港が3位である。東京や横浜の3倍以上の大きさだ。シンガポールの1人当たり国民所得(ドルベース)は、07年に日本を抜いた。

アジアNIESに続いてタイとマレーシアで自動車や家電が発展し、タイは東南アジア

5. 中国の飛躍

中国では80年に文化革命が収まって市場経済化が進み、外国企業の投資が始まった。89年に天安門事件が発生して、約2年間、経済成長が止まったが、鄧小平が92年における「南方視察」で、「改革開放路線をさらに進めるべきだ。市場経済と社会主義経済は、両立できる」と宣言すると、再び、高成長に戻った。
中国の成長政策は外国企業の誘致だった。省や市政府は農民から土地を安く買収し、工場団地を造り、外国企業に売却した。外国企業は、税制上の優遇措置と低廉良質な労働力に惹かれて、輸出品の工場を建設した。省や市政府は工場団地の売却利益をインフラ整備に投入して、さらに工業団地を造り売却した。工業団地事業をそっくり外国のデベロッパーに委託することもあった。

最も大きいのは、蘇州市とシンガポールの企業との合弁事業で造成した蘇州工業団地だ。面積は260平方キロであり、建設後10年間で(04年)1400社の外資が進出した。この団地で働いている専門技術者は28万人に達し、そのうち博士号を持っている人は8000人である。団地内で通関手続きが行われ、ビザを更新できる。

外資企業の輸出が全輸出額に占める比率は、90年代後半で50%を越した。中国へ工場進出している国の投資ランキングでは、香港が30%を占め、ついで韓国、台湾、日本、アメリカ、EU諸国、シンガポールの順である。山東省では韓国企業の工場が溢れ、青島市の一角はハングル文字で埋まっている。外資企業の設備投資がGDPに占める比率は5%に達した。

中国の外資系工場では、生産設備や素材・部品の中級品はNIESから、高級品は日本からそれぞれ輸入した。中国の生産技術が向上すると、外資企業は組立だけではなく、機械設備や部品の生産を中国に移転した。例えば、日本からは、自動車の組み立て工場だけではなく、工作機械、産業機械、電装品、スプリング、金型等関連産業が一斉に工場進出した。その結果、中国の産業の巾が一層拡り、技術が深まった。

中国の対米輸出額は2000年代になると、日本の対米輸出額を抜き去り、07年に日本の2倍を遙かに超えた。その年には中国の対米貿易黒字は2600億ドルを越え、アメリカの貿易赤字の約30%以上を占めた。中国経済は対米輸出に支えられて成長し、日本やNIESは対米輸出と対中輸出の伸びに支えられて成長したといえよう。

NIESの企業は対中貿易を拡大するために技術の高度化を迫られて、日本企業との合弁会社や技術提携によって、高級製品を生産するようになった。日本企業は一段と高い技術の開発を迫られた。こうして中国から押し上げられるようにして、東アジアの産業全体が高度化した。

6. コピー大国は強い。

外資企業の生産技術は工場の周辺地域に浸みだして、中国企業の技術水準が高まった。産業のレベルを最も早く引き揚げる方法は模倣である。中国には知的所有権の観念がないから、罪悪感に囚われずに自由に模倣できる。模倣品は本物より品質は落ちるが、価格は数分の一であり、中国では、修理店が多いので、故障しても直ぐ直せる。中国の製造業は模倣によって成長した。

たとえば、バイクでは1時期ホンダの模倣品「ホンタ」が普及し、修理用の模倣部品も増えた。ジョイントの世界的メーカーはソミック石川である。中国では「ソメック」という商標のジョイントが普及し、修理に使われた。模倣品や模倣部品の生産によって技術が進歩し、それらは低額であるから、急速に普及し、国民の生活水準を押し上げた。

パソコンは、80年代には中央演算素子とメモリーや周辺部品を組み立てれば、生産できるようになった。つまり、モジュール型の産業に発展したのだ。中国では大学進学率が上昇し、理科系の学生が多く、八〇年代中頃には大学の理科系卒業者が年間100万人を越した。彼等は難しい入試を突破した秀才であり、卒業後、パソコンを生産するベンチャー企業を起こしたり、またパソコンメーカーで働いた。

九〇年代中頃に、精華大学の卒業生によって設立された四通集団と、社会科学院の研究者によって設立された聯想集団が漢字入力問題を解決した。若い世代の活躍によってパソコンの品質が向上し、低価格を武器として輸入品と競争できるようになった。

巨大都市の大学周辺には秋葉原のような電子部品の小売り店街が生まれ、小売店は顧客の要望に応じてパソコンを組み立て、コピー・ソフトを組み込んだ。アメリカで新ソフトが発売されると、翌日にはコピーソフトが「中国の秋葉原」に出回るという速さだった。

コピー・パソコンは普通の国産パソコンの70%ぐらいの価格であり、フリーズした時には助けてくれるというアフターサービスがある。コピー・パソコンが全パソコン販売量の40%近くを占めた時期もあった。〇五年頃には、所帯当たり普及率は40%に達し、中国はごく短期間で情報化社会に入った。

また国営企業の改革が進み、90年代から、過剰人員や過剰設備の整理がされ、国営銀行は貸付債権の一部を放棄した。また国営企業は、収益部門を独立分離して上場し、獲得したキャピタル・ゲインによって累積赤字を償却した。さらに国家による経営介が少なくなり、多くの国営企業の経営が好転した。

世界の上場企業の時価総額ランキング(〇八年三月)では、中国の国営企業5社が上位一〇社の中に入るようになった。世界1はペトロ・チャイナである。日本企業の最高はトヨタの21位だった。

7. 高貯蓄率・ハイペースの投資

中国の貯蓄率は異常に高く、50%に近づいた。社会保障が貧弱であるから、多くの人は将来に備えて貯蓄しており、所得の上昇スピードが早いから、貯蓄するのは難しくない。貯蓄は投資の源泉である。設備投資は巨額な貯蓄に支えられて、唸りをあげるような勢いで増加し続けた。その結果、供給力がみるみる拡大し、供給過剰の製品は海外市場に押し出された。製品の品質が向上し、また農村から絶えず労働力が供給されるから、賃金水準が低い。良質・低廉の中国製品がアメリカや日本だけではなく、東南アジア、ロシア、中東、ヨーロッパまで拡がった。

中国製品の世界におけるシェア(数量)は、05年頃に、靴、玩具、電子レンジ、コピー機で65%、セメント、デジカメ、DVDーROMドライブ、織物では50%、テレビ、携帯電話、鉄鋼、カーステレオでは25%に達した。自動車については、08年に、生産、販売ともに世界1になり、11年には、中国の企業が家庭用の電源で充電できるハイブリッド車をアメリカで発売する予定だという。日本企業との開発格差が縮まった。2000年代には、ソフトウエア産業が急速に成長し、政府は29のソフトウエア・パークをつくり、生産額は5年間で6倍になった。

中国では、経済成長とともに、技術者、技能労働者、ホワイトカラー等の中産階級が増え、工業製品の国内市場は拡大し、彼等が生活する都市では流通サービス業が伸び、街並みが華やかになった。外資企業の工場進出の狙いは、輸出から中国の内需に変わった。

私は隔年上海師範大学の教授宅を訪問している。彼女の家は上海の中心部になり、200ヘーベの部屋とそれに隣接した同じ面積のガーデンがある豪華マンションである。部屋には風呂が二つもあってその1つはジャグジー付きだ。グランド・ピアノもある。マンションの直ぐ側にマッサージ店が多くあり、彼女の家族は毎週、2時間近いマッサージを受けるそうだ。彼女の自慢の娘は日本、イギリス、フランスに留学したので、英語と日本語を母国語のように自由に操り、英語のテレビ・キャスターとして働いている。この一家は私や私の子供達とは比較にならないほど、高級で文化的な生活を営んでいるが、上海の生活としては、
特に珍しい例ではないそうだ。

8. 貧しさが消えた

振り返ると、四〇年前の中国は実に貧しかった。大都市では早朝から深夜まで青い木綿の人民服を着て、麻製の靴を履き、自転車を踏む人達の大きな流れが絶え間なく続いた。その流れの中を荷物を山のように積んだ荷車や馬車がぎしぎしと動き、時々政府高官が乗用車が、大きな警笛を鳴らして、自転車や馬車や荷車を蹴散らして走った。

郊外は砂利道であり、故障し立ち往生しているトラックが頻繁に道を塞いでいた。方々で鶏が走り回り、鵞鳥や豚が道を歩いていた。中央政府の建物の庭にも鶏が散歩し、洗濯物が干してあった。職住一致だった。

殆どすべてのトイレは隣との境の壁も、ドアもない。北京駅のような重要な建物でも、トイレにはずっと先の窓際まで、大勢の人が通路に向かってしゃがんでいる。下は汚物の山であり、臭気が満ちあふれていた。どの大都市でも、立派なのは毛沢東の銅像と、「世界人民の団結万歳」といった類のスローガンが書かれた大看板だ。ビザには訪問都市名が記され、そこから外には出られなかった。

四〇年間で、すべてが変わった。北京の長安街や上海の新天地は新宿や青山と変わらない。街から自転車が消え、自動車が溢れている。高速道路が全国を縦横に走っている。大都市のホテルのトイレはウォシュレットが多くなった。四〇年前の中国旅行は未開地探検といった覚悟が必要だったが、現在、中国沿岸部の都市への旅行はヨーロッパ旅行と何ら変わらない。驚嘆すべき成長だ。

二、強いアメリカの3大産業

アメリカ産業の中で、競争力が優れた産業といえば、チェーン・ストアー、金融、大学だろう。これらの産業は相互に刺激し合って、製造業が弱くなったアメリカ経済の成長を支えた。チェーン・ストアーは膨大な量の中国製品を輸入した。その販売価格が安かったので、アメリカの物価が安定し、長期金利は上昇せず、90年代後半以降の長期繁栄が実現された。

アメリカ経済は、90年代後半からITブームによって、また02年から07年までは住宅ブームによって繁栄した。その過程で一段と過剰消費経済になり、貿易赤字は拡大の一途を辿り、世界中にドル資金が溢れた。

そのドル資金は、好景気が続き、かつ金融工学が発展し新金融商品が続々と開発されている金融王国・アメリカに引き寄せられた。アメリカ経済は貿易収支の赤字がどれだけ拡大しても、それによって散布されたドル資金が直ぐ環流したので、ドルの暴落を恐れる必要がなかった。その結果、アメリカ経済の過剰消費の度合いが拡大し、鯨のように中国製品を呑み込み続けた。アメリカの大学の理工学部では、IT技術、チェーン・ストアー理論、金融工学等の研究が進み、小売り業や金融業では、それを応用して、目覚ましい技術進歩が起きた。

大学は多数の留学生を受け入れ、彼等の中からITやその応用技術の開発者が多数生まれた。多くの留学生は母国に帰り、ベンチャー企業を起こしたり、大企業に勤めたりしてIT技術の担い手になった。NIES、中国、インドの経済発展は彼等の活躍に負うところが大きかった。
 アメリカの3大業界の特色について述べていこう。

 1,小売業の情報化

 A、化け物・チェーン・ストアー
 アメリカにおけるチェーン・ストアーの代表はウォルマートだ。それは世界最大のチェーンストアーであり、店舗数は国内4000店、海外2000店に達し、売上額は30兆円を越えた。商品の多くは中国にある数千社の企業によって生産された。その企業は米系、台湾系、日系等の外資の現地企業だったり、中国企業だったりする。チェーン・ストアーの仕入れコストを引き下げるには次の方法がある。(国内の店舗だけを考える。)

1,商品毎に中国の企業に対して大量発注する。そうすれば、購入価格が大幅に下がる。

2,4000店舗は、品目毎に売り上げが発生した都度、直ちに中国の工場にその情報を伝える。

3,中国の数千の工場では売れた数量を直ぐ生産する。製品は通関を通りアーカンソー州・ベントンイル

にあるウォルマートの流通センターに、絶え間なく発送される。

4,商品がこの流通センターから、4000の店舗に絶えず供給される。こうして過剰在庫や品切れが防止
される。

このシステムの長所は仕入れ価格の低下、品切れ防止による顧客の確保、売れ残りの防止、在庫コスト・ゼロである。短所は数千種類の商品を中国から絶え間なくに運び、そこから全米に配送するコストが高いということだ。物流コストを引き下げれば、中国への大量発注システムは採算にのる。

アーカンソウ州のベントンビルには、年間に30億個の商品を捌くウォルマートの物流センターがある。それは気が遠くなるような巨大システムであり、面積は11平方キロメートルに達し、バーコード、センサー、仕分け機械の組み合わせからなっている。

超大型トラックが物流センターの建物の片側に次々に到着して、中国の数千社から集荷された商品をベルトコンベアの上に降ろす。ベルトは延べ延長が20キロメートルの長さであり、それは本流のコンベアーから始まり次第に数百の支流コンベアに分かれていく。

この間にセンサーに連動した仕分け機械の腕が、商品を指示された支流に押し出す。建物の反対側にはトラックが待機している。そのトラックは荷物を決められた店舗に運び、決められた棚におくのだ。大量買い取りの発注によるコストの減少額は、このサプライチェンによるコスト増加額より相当に大きいのだ。(注2)。

B、日本的サプライチェーン

日本のチェーン・ストアでも、中国の工場と結合した効率的なサプライ・チェーンをつくっている。バーコード、センササー、仕分け機械を組み合わせたベルト・コンベアー・システムのハードの作成は、日本企業の得意とするところだ。しかし、ウォルマートに較べると、規模が小さく、スケール・メリットの効果が弱い。

日本では自動仕分けシステムのハードは優れているが、流通業にはそれを大規模に利用できない。消費者の要求が細かく、都市が過密でありかつ狭い。そこで食品、衣類、雑貨などの専門小売店で細かい品目毎に、中国企業を含んだサプライ・チェーンが出来上がっている。自動仕分けシステムも小型だ。

また、時には、サプライチェーンの目的が違っている。1例をあげよう。静岡県の三ヶ日は蜜柑の有名産地である。ここの農協は蜜柑の自動仕分けシステムを備え、農家から蜜柑が運び込まれ、ベルトの上に流されると、センサーが大きさによって3種類に分け、次いで糖度によって5種類に分類し出荷している。実に見事なシステムだ。品質毎に価格が決められているから、この仕分けによって蜜柑を納入した農家に支払うべき金額が正確に判る。

しかし、問題は、スーパーでは仕分けされた蜜柑をそのまま売るとは限らないことだ。糖度の多い蜜柑と少ない蜜柑を適当に混ぜて売ることがある。スーパーにとって、最も重要なのは販売価格であって、その日の売れ筋価格に合うように、蜜柑を混ぜるのである。

この高度な自動品質仕分けシステムは、納入農家に対して品質を客観的に評価して支払代金を決め、またスーパーに対して納入蜜柑の品質を示した上代金を請求するという目的に利用されているのだ。つまり農家に対して、高品質の蜜柑を生産すれば、それに見合った利益が確実に得られことを証明して、品質改善意欲をもりたてようとしているのだ。

製造業では、新製品を販売すると直ぐに模倣品が出回る。新製品を分解して、特許に触れないように模倣品を作るのは難しいことではない。これに対して、ウォルマートのチェーンシステムは理屈が解り、かつハードの装置を手に入れたとしても、実際には稼働しない。中国における現地企業、輸送会社、港湾業者、省や市政府等との多様な交渉、大型店舗の立地、労務管理等、多分野に関わる細かいノウハウの蓄積が必要だ。

外国の自動車企業がトヨタの「カンバン」方式を真似るのは難しいという。トヨタは店頭の注文に応じて、絶え間なく自動車を供給し、かつ在庫をゼロ近くに抑えている。そのためには、膨大な数の部品メーカーがトヨタと一体にとなり、同調して経営するシステムが必要だ。それは長期間にわたる取引を通じて信頼感が形成され、技術が緊密に交流されているから可能になる。また何時、どの部門で、突然欠勤者がでても、多能工が育っているので、随時カーバーできる。

こうしたシステムは真似ができるものではない。トヨタは外国の競争企業がトヨタの強みを盗めないと確信しているから、工場見学を拒まない。日本のトヨタはアメリカのウォルマートそっくりであり、日本の自動車工業の強さは、アメリカの小売りチェーンの強さと似ている。

2,世界を征した金融業

チェーン・ストアが低廉な中国製品を呑み込むシステムであるのに対して、過剰消費経済を創る原動力は80年代以降の金融業における技術進歩だった。その頃から、アメリカでは金融の自由化が進み、ITと金融工学技術が結合して証券化が広がり、多様なデリバティブが開発された。

その結果、貸付リスクが分散され、住宅金融会社はローンを増やすことができた。個人の借入総額は85年には2兆ドルだったが、95年には4兆ドルと倍増し、それ以後さらに急上昇を続け、07年には14兆ドルに達した。それはGDPを越える額であり、家計の借入金残高は年所得の130%に達した。

住宅ブームが発生し、住宅投資は91年の90万戸から、06年には220万戸になった。住宅価格は上昇し、中古住宅価格は95年以降10年間で2,2倍になった。投機的な動機による住宅投資が増えた。
住宅価格が上昇すると、住宅担保の消費者ローンの借入限度額が増える。それは普通の消費者ローンより低金利であるから、消費者ローンが累増の一途を辿った。

ITバブルは01年に崩壊したが、02年から住宅・消費ブームが起き、それとともに中国からの輸入が激増して物価の安定し、景気変動のないニューエコノミーの時代が到来したと言われたと言えよう。
住宅・消費ブームをもたらした金融革命の内容は次のように要約されよう。

A、ノンバンクによる信用創造
住宅金融会社は住宅資金を貸し付け、その貸付債権を証券会社に売却し、その代金によってまた住宅貸付を行うという循環によって、住宅貸付を伸ばし続けた。それは明らかに信用創造であり、本来は厳しい規制下におかれた商業銀行が担う機能だった。

B、証券化
証券会社は、全米各地で生まれた貸付債権、消費者金融債権、自動車ローン債権を混合し、それを担保として新しい証券化・金融商品を発行した。それは年金基金やヘッジ・ファンドや商業銀行に売られた。この金融商品は多様な貸付債権を担保にしているから、それだけリスクが分散され、安全な金融商品に見えた。
C、金融証券の格付けと保証
格付け機関は、多様な貸付債権を複雑に証券化して創られた金融証券について、安全性を判断できなかったが、専らリスクが分散されている点を評価して、90年代前半には高い格付けを与えた。また保険会社は料金を徴収して、金融証券の元利払いや市場価格を保証した。金融商品を安全だと判断して保証を増やし、保証総額は天文学的な数値に膨れあがった。投資家はこの保証によって、金融商品のリスクが完全に消えたと確信した。

金融革命がとくに威力を発揮したのは、01年頃から急膨張した低所得向け住宅ローン(サブプライムローン)だった。その頃、アメリカ経済は、ITバブルが崩壊して深刻な不況に落ち込んでいたので、連邦準備制度理事会(FRB)は金利を1%に引き下げ、政府は低所得層の住宅取得を推奨した。その結果住宅価格が上昇し始めた。

低所得者層は所得に較べて過大な住宅ローンであっても、返済できそうに思った。住宅金融会社には証券化によって貸付リスクを逃れることができるから、彼等の無知につけ込んで、甘口で住宅ローンを誘った。サブプライムローン残高は07年には3兆円に達した。中所得以上の階層が利用するプライムローンも増え、全住宅ローン残高は13兆ドルになった。07年から住宅の中古価格が低下し始めると、間もなくサブプライムローンの返済が滞り、金融危機の発端になった。

D、レバレッジ・バイアウト(LBO)

LBOとは、金融機関がA社の買収を企画したB社に対して、A社の資産を担保にとって資金を融資することだ。アメリカでは企業が設備拡大や新分野への進出を行うとき、企業買収という手段をとることが多い。その際投資銀行やヘッジファンドがその買収資金を融資した。

ヘッジファンドは、しばしば、収益力に較べて株価が安い企業を買収し、次のような方法によって利益を生み出した、

1,優れた経営者に経営を任せる。利益をあげた時、株式を上場して、キャピタルゲインを獲得する。2,買収した企業の資産をバラバラにして売却する。買収価格が低い時には利益が生まれる。3,買収企業を高値で売却する。

LBOによって、企業買収が一層拡がった。その国民経済的メリットは、優れた経営者に変わるので、企業の経営資源が充分に生かされることだ。また経営者は買収を恐れて、経営に全力を投入し、株価の上昇に努めるだろう。そうした結果、経済が活性化するはずである。しかし、従業員は、それまで勤めていた企業が物のように売買されたり、突然新会社に移動させられたりすると、勤労意欲を失うという問題があった。

E、資金の国際的環流

世界の過剰資金は、アメリカの国債、証券化金融商品、ヘッジファンドへの出資金、株式の購入等に投入された。中国や日本の政府は手持ち外貨の60~70%をアメリカ国債の購入に当てた。アメリカ国債は安全である上、それを購入するとき、ドル買いを伴うので、元や円のレートが低下して、輸出産業が伸びるというメリットがあったからだ。

世界の主要な金融機関は証券化金融商品は安全だと信じて膨大な額を購入した。世界の証券会社や産油国の政府ファンドは高収益を狙って、ヘッジファンドに出資し、また株式を買った。アメリカにある海外諸国の金融資産総額は07年で1兆7000億ドルに達している。

ところで、アメリカの企業は産油国や中国で直接投資している。またアメリカの機関投資家は世界の証券市場の最大のプレヤーあり、日本の株式市場でも、そうであって株価はアメリカの投資家によって動かされている。アメリカの政府や企業が海外で持っている金融資産総額は、07年で1兆3000億ドルである。内外の金融資産総額を差し引きすると、アメリカは4000億ドルの負債国である。

ところが、金利・配当の収支をみると、アメリカの受け取り総額は510億ドルであって 支払い総額の390億ドルを遙かに越えており、収益をあげている。平たく云えば、アメリカは負債国であるにも拘わらず、儲けているのだ。

06年から07年かけて、ヘッジファンドは高収益をあげた。その頃、日米金利差は5%巾まで拡大していた。アメリカでは好景気のため金利が上昇し、日本では超低金利政策が続いていた。そこで、ヘッジファンドは金利が低い円資金を借り、それをドルの金融資産に運用して儲けた。いわゆる円キャリー・トレードである。

それにともなって、円売り・ドル買いが発生して円安になり、日本の対米輸出が伸び、日本の景気が好調だった。アメリカの貿易赤字が拡大したが、ドル買いが増えたので、アメリカはドルの暴落を少しも恐れることがなかった。ヘッジファンドを始めとしたアメリカの金融業の盛況が続いた。07年までは、アメリカの金融業が世界経済を動かした。

次号は大学産業を述べます。

注1,丸山知雄「現代中国の産業」中央公論新書・07年
注2、トーマス・フリードマン「フラット化する世界」日本経済新聞社・06年

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