随想・書評

季刊清水46号 掲載

清水次郎長と田口英爾君

1,権力に中立な円満な常識人の親分

清水次郎長は、駿府に進駐して倒幕軍の治安責任者(差配人)の浜松藩・伏谷如水から呼び出され、「沿道警護役」を任命された。時代の流れに鋭敏な浜松藩は早々に官軍側に寝返り、駿府城周辺の治安を守るため、侠客としての過去罪状を問わず、正業の治安統括官として次郎長を起用した。慶応4年、49歳の時である。

伏谷如水は慧眼だ。次郎長はアウトロウの世界に生きてきたので、官軍・幕府軍の何れに対しても、義理も恨みも感じていないから、中立的な行動を取るに違いない。また、街道一の博徒の大親分なら、それなりに卓抜した政治力も備えているだろうと判断した。

事実、その地位は腕力だけでは確保できない。賭博は御法度であるから、八百長賭博にかかっても訴える先がない。賭博世界の繁栄のためには、ルールを決め、それを実現させる政治力が必要だ。

例えば、賭博には八百長が付きものであるが、余り、多額の金を巻き上げると、喧嘩が起こり、結局客数が減り衰退する。八百長がなく、かつ寺銭を軽くして、大衆賭博の道を選択すると、繁盛して目立つので、手入れが多くなる。八百長、掛け金、寺銭にはそれぞれ常識的な水準があり、胴元がそれを守れば、賭博は長期に繁栄するはずだ。

そのためには、ルール破りに対して、裏の世界の警察官が鉄槌を加えなければならない。次郎長は子分の統率力に優れていた。彼は、そのコツを聞かれたとき、「あっしは、人前で子分を叱ったことがありません。人前では褒めるに限ります」と答えた。彼は、裏の世界から表の世界に移るとき、富士山麓の開墾事業に手を出したが、それは子分の失業救済だった。

裏の世界の成功者は、1,客のニーズや気持ちをよく知ること、2,官憲との対立を可能な限り避けること、3,ルール違反者に対してはタイミング良く、一挙に攻撃すること等、幅広い情報を集め、かつ誰でも納得する常識的な判断力を備えている。

1万人を遙かに超える徳川の幕臣が、静岡藩に移転するため、家族を含めて清水に上陸し、その数は10万人近くに達した一種の難民だった。驚くことに、次郎長は、直ちに、お寺・神社等の宿泊所を探し混乱を収めた。

また咸臨丸事件でも当時、清水港に故障で停泊中の咸臨丸で官軍に襲われて殺害され、港内の放り出された幕府の武士7名について、「幕府軍に味方する者は極刑」というお触れを無視して、次郎長は手厚く弔った。

徳川慶喜は旧幕臣と頻繁に会えば、反逆心を疑われるので、駿府で自由な行動が取れない。慶喜は駿府では写真、投網、自転車の趣味に生き、投網のお供は次郎長である。慶喜は趣味の生活の中で明治政府へ反抗心が全く消え、30年後に東京に戻り、政治に復帰した。

当時の駿府には超一流の幕臣知識人が集中しており、次郎長は侠客時代に鍛えた情報吸収力、幅広い常識、交渉力、人間的魅力を発揮し、彼らの知識を借りて新事業を企画した。富士山の茶畑開墾(輸出を狙う)、利潤を確保するため直接輸出を目指した清水港の開発、エネルギー革命を予想した相良油田の試掘、駿府藩の英語使いを利用した英語塾等がその典型である。

彼は広い人的ネットワークによって、斬新な企画を建てたが、実際の商取引を経験したことがなかったので、アイデアや企画の多くは、採算に乗らず、失敗した。

2,庶民が支えた明治無血革命

明治維新は権力構造がひっくり返る革命であり、外国の普通の革命では権力を奪った勝者は、敗者を徹頭徹尾痛めつけて弾圧し、再起不能にするものだ。フランス革命、ロシア革命、中国革命がいずれもそうであり、数百万人が犠牲になる。

ところが、明治維新では官軍は見せしめのために、会津藩、長岡藩、二本松藩を懲らしめたが、その他の賊軍は被害がなく、榎本武揚を始め敵将を維新の重鎮に採用した。

何故、明治維新の混乱が少なかったが。その原因は、細かい事例で新旧対立の構造を調べることで、明らかになるはずだ。

清水における明治維新の混乱を収める大役を担ったのは侠客であるから、政治的立場が中立な常識人の次郎長だった。官軍から沿岸警護人を任命され、まず、幕府軍の難民救済、戦死者の手厚い弔い、官軍側の刺客の防止など、幕府軍の混乱を防いだ。駿府は徳川直系の土地であるから、反乱の可能性大きいはずであるが、幕臣・中村正直はスマイルの「西国立志伝」を翻訳してベストセラーにし、渋沢栄一は日本初の株式会社を設立し、革命の敗者の地が、文明の発生地に変わった。

私は、次郎長を研究すれば、庶民の感覚からこの推移を考察でき、日本における近代国家の建設に基盤が判るはずだと考えた。

3,偉大な歴史作家

田口英爾という異能な歴史作家が去った。

彼は60才台でプロの歴史作家に転身した。その切っ掛けは、幕臣杉浦梅潭の曾孫から、40年間の日記やメモがぎっしり詰まった行李の整理を頼まれ、それを見て知的に興奮し、東大史料研究所の指導を受けて、現代文に翻訳して、貴重な歴史的文献を作成したことにあった。

その直後の95年に「最後の函館奉行の日記」(新潮選書)という見事な梅潭の伝記を書き、ロシア代表との緊迫した国境交渉、函館奉行所を明治政府に整然と移管する情景、明治維新前後の壮大な政治劇の場面等が、正確な筆致で再現され、専門家から高い評価を受けた。

その頃、彼は出生地の次郎長が眠る梅陰寺の傍らに居を移しており、熱情を明治維新時代における故郷の調査に向けた。「梅陰寺・清水次郎長伝」、「次郎長と明治維新」、「伏谷如水伝」(凶状持ちの次郎長を清水港警護人に抜擢した人)、「7代目鈴木与平伝」、「播磨屋物語」(清水の廻船問屋)等の作品を次々に完成し、私と共著で「清水次郎長の経済学」(東洋経済)を書き、「歴史街道」(PHP)等に多くの研究成果を発表した。

彼の次郎長研究は本格的だった。一つの史実を証明するために、多数の古文書に当たり、関係者にヒアリングを繰り返した。例えば、次郎長の清水港建設計画に関しては。横浜の貿易会館に何ヶ月も通い、明治初期の横浜新聞を読破するという徹底ぶりだ。

次郎長が晩年経営した船宿「末広」には、次郎長の見識・人格を慕って、インテリ軍人・広瀬武夫や小笠原長生等が頻繁に出入りし、後に広辞苑を作った新村出少年も訪れ、内村鑑三は著作で次郎長に触れている。

彼は清水史の生き字引だったので、一流の歴史学者、小説家、舞台俳優が取材に訪れ、彼の学識に触れ、交際を長く続けているが多い。また慶喜が撮った風景写真の遠景に「本物の末広」を発見して、末広を復元する運動を起こし、清水の新名所が生まれた。「清水次郎長翁を偲ぶ会」は田口がリーダーとなって、毎年、次郎長史跡巡りの旅行を楽しみ、一昨年は黒駒村(元)で、次郎長の宿敵勝蔵一家と手打ちの会食をした。

田口は私と旧清水市の岡小学校から東京大学経済学部まで同じコースを進み、小学校と中学校の時にはほとんど毎日私の家に遊びに来た。私は彼より半年前に産まれ、子供の時には僅かな生年月日の差が大きな体力差を生むので、それ以来、私はずっと彼に威張ってきた。知的実力は問題なく彼の方が上であったが、「次郎長翁を偲ぶ会」の会長は、子供の時からの仕来りで私が会長になった。

晩年には毎週のように会い、老いの繰り言を肴に飲んでいたが、彼の死とともに私の人生が突然消え去り、生きる希望を失った。なお、彼は優れた随筆を書き、永井荷風を研究し、また碁が滅法強い。実に多才である。

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