随想・書評

清水会報

4つの宿場の繁栄

蒲原から江尻までの宿場は、東海道を通ずる東西の交通だけではなく、富士川・清水を通ずる南北の物流によって栄えた。それは17世紀初め、角倉了以によって鰍沢ー岩淵間の富士川水路が開発されたからだ。

松本、諏訪、甲府地方の年貢米は、鰍沢で川船に積まれて岩淵で下ろされた。そこから馬で蒲原まで送られて、再び「瀬取船」という小舟に積まれ、清水に停泊している千石船に届けられた。千石船は江戸へ発つのである。

清水では、塩が「瀬取船」に積まれ、逆のルートを辿って鰍沢に向かった。鮑の煮貝等の海産物品も送られた。川上りは、3人の水夫によって舟が引かれ、4~5日もかかった。
蒲原から江尻にかけては、小島藩を始めとした小藩や旗本直轄地が多く、財政が窮乏して、武士は貧しかったが、交通・物流の十字路だったので、宿屋・休憩所等のサービス業や卸小売業が栄え、民衆は豊かだった。

富士川、興津川、庵原川の川沿いには三椏が自生し、19世紀には、興津川から庵原川の周辺の農家は紙漉を副業として豊かになり、和紙の産地が形成された。現在、和紙を生産する企業が一社残っている。

19世紀には「蒲原・由比」と、「江尻・興津」の街は現在よりも、遙かに賑やかだった。蒲原の街並みは1、4キロも続いた。今でも、蒲原や由比の旧道には、栄えた時代の面影を残している家が幾つもある。江尻の街並みは1,3キロ、隣の興津の街並みは1,1キロもあり、清水、江尻、興津は連続した1つの大きな町のようだった。

蒲原は元禄と安政の時大津波に襲われ、大きな被害を受けた。由比は大地震の都度、隆起して土地が広くなった。東海道の薩埵峠は海岸に山が迫り、切り立っている難所だったが、安政の大地震で海岸が隆起し、現在では東海道線、国道一号線、東名高速が平行して走っている。由比には、「地震さん、地震さん、また来ておくれ。私の代にもう1度、孫子の代に2度・3度」という歌が残されている。

安藤広重は、版元の無理な要求に応じて、想像で雪の蒲原を描いた。旅人が風に煽られている江尻の絵も、想像に違いない。交通の大動脈である東海道の旅情を出したかったのだろう。
私は江尻で育った。中学生の頃、薩埵峠まで自転車でしばしば出掛けたが、静岡には殆ど行かなかった。江尻・興津の歴史的一体感がそうさせたかもしれない。

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