随想・書評

東京大学経済学部同窓会(東京大学経友会)雑誌「経友」187号(2013年10月1日発行)掲載

エコノミスト人生―馬鹿の一徹

1, 学者になりたい

私は間もなく83才になるが、25才から始まったエコノミスト生活を、現在まで性懲りもなく続けている。私の故郷の静岡県では年配の大学者が頑張り、元東大総長の「俳人」有馬朗人氏は母校の旧制中学がある浜松で静岡文化芸術大学の理事長として活躍し、比較文学の大家で元東大教授の「名随筆家」芳賀徹氏は県立美術館の館長を勤めている。有馬さんは生年月日が私と同じであり、芳賀さんは1才若いだけだ。

振り返ると、私は小学生の頃から学者に憧れて、旧制静岡高校の理科に入学したが、数学の成績が悪く、自然科学者として適性のないことを自覚した。

昭和20年代は敗戦の混乱期にあり、若者は思想的問題を抱え悩んでいた。そうした時、私は、マルクス経済学を学べば、理想の共産主義社会へ発展する歴史的必然性を理解し、思想的悩みは立ち所に消えると錯覚し、経済学部に進んだ。経済学は面白かった。

今度は経済学者に成りたかったが、2人の兄から「お前の頭脳では無理だ」と反対され、またゼミの鈴木武雄先生は新設の設備融資専門の日本長期信用銀行(長銀)を薦められた。

長銀では融資部に配属されたが、仕事が下手なので銀行員不適格と判断されて、調査部へ追い出されたことが、私の幸運だった。銀行の調査部は生きた経済を研究対象としており、結構面白い仕事だ。直ぐに変節し、経済学者ではなくエコノミストを狙って懸命に頑張り、何とか今まで長持ちした。すなわち、a、長銀調査部に35年、b、長銀総合研究所(長銀総研)に10年、c、県の外郭団体・静岡総合研究機構には、長銀や長銀総研に在職中からの兼職期間を含めて、合計30年勤めた。d、現在、静岡県立大学で4年目の勤務であり、80才近くなって、やっと職種がエコノミストから経済学者に変わった。  私が、長銀調査部に長く勤めたのは、「銀行の仕事は無理だ」と思われ、どの部門からも引き抜きがなかったからだ。私は故郷の旧清水市には長銀就職後も毎月のように帰って多くの友人と付き合い、また5年前まで25年間連続して「新春経済見通し」を講演し、「清水次郎長を偲ぶ会」の会長も長く勤めた。長銀が倒産し、無職になった私が静岡に戻るのは当然だと思われた。  静岡県立大学には、毎週2日間川崎市の自宅から通い、また静岡新聞の論説委員として隔週に「論壇」を執筆し、さらに価値総合研究所の特別顧問として季刊研究誌に論文らしきものを発表している。  この3月には、2年間をかけて、「経済学の忘れもの」(日本経済新聞出版社・日経プレミアシリーズ)という経済学者の著作らしい題を付けて経済と宗教の関係を論じたが、残念ながら予想したほどには売れなかった。 私は、年相応の病に苦しんでおり、今年は2度目の胃がんの手術を受け、また肺がPOCDという悪病に冒され、3年前から24時間酸素吸入によって生きている。酸素ボンベを引き、補聴器を付け、ニトログリセリンを持って静岡に通勤し、日韓文化交流基金の評議員として、韓国に出掛けている。これに対して、有馬さんと芳賀さんは元気であって、若者のようにすたすた歩き、方々に旅行されている。私は、作文と討論が好きであるから、持病に苦しみながら、老後を何とか生きている。

2,趣味を仕事に転化する生活

仕事と趣味を一致させると、骨身を惜しまず働くものだ。長銀調査部では部長に熱意を伝えると、間もなく、希望の仕事をやらせてくれた。私の趣味はまず旅行であるから、長期にわたって海外出張できる調査テーマを希望した。60年代の新産業は原子力とコンピューターであり、いずれも欧米に長期出張しなければ、レポートが書けない。 70年代にオイル危機が発生し、また日本は海外投資国になった。中東産油国や東南アジアの政治経済状況を調査するためには、現地に長期逗留しなければならない。私は探検に出掛ける気持ちで、野宿を覚悟し、単身でいろいろな遅れた国を訪ねた。 日韓、日中の国交が回復すると、直ぐに、両国の経済研究所と、経済発展計画ついての共同研究を始め、それぞれの国に3年間以上にわたって毎月何日も出張した。中国では上海万博を提案し、当時の江沢民市長に計画案を報告した。その25年後に開かれた上海万博では、上海市が私を誕生日に招待し、記念パーティーを開いてくれた。 私は、合計すると、海外では60数カ国、国内では全都道府県と主要な島を訪ねた。30年から50年ぐらい昔の話しになるが、その頃の社会・経済事情を端的に物語る調査依頼や質問・事件を紹介しよう。

①調査依頼(皆拒絶した)。

a、日本は国旗も揚げず国歌も歌わないのに纏まっている。我が国は4つの民族が対立し困っている。纏まるにはどうしたらよいか。(パキスタン)

b、新宿駅のラッシュアワーでは混乱や喧嘩が起こらず、乗客は整然と電車に乗っている。政府はどのように指導訓練しているのか。(中国)

c、日本は受験地獄だと聞いている。我が国の大学は受験生が少なくて困っている。受験地獄をつくる方法はないか。(クウェート)

②興味深い質問・意見・事件

a、日本の大学は何語で教えているのか。日本語で教えられる先生がほんとにいるのか。(イラク)

b、日本人もユダヤ人に苦しめられているに違いない。そのため、日本赤軍はテルアビブでテロを起こしたのだろう。(ドバイ)

c、あなたは私が初めて会う日本人だ。この板を空手で割ってみてくれ。(シリアの大蔵大臣)

d、ミスター・タケウチは既に到着している。あなたはアナザー・タケウチだ(予約が機能していない)。しかし、入り口の廊下で寝るなら構わない。サハラ砂漠の夜は寒かった。(アルジェリア・ガルダイア)

e、「突然、出張が決まった大臣の搭乗する席がない。最前列の席に座っている外国人は降りて、明日の便に乗ってくれ」という。私は降ろされ、ビザがその日に切れたので、2日余分に滞在した。(サウジアラビア・リアード)

f、私の名はハッサムだ。文字を知らないから入国書類を書いてくれ。(アルジェリア・チェニジア間の道路上の国境)

g、日本人には国際性があり、宗教心が強い。その証拠は鎌倉で、大勢の人が熱心にニグロの大仏を拝んでいる。(初来日のアルジェリア人)

h、折角、遠くまで講演に来て貰ったが、関係官庁に通知するのを忘れた。謝礼は払う。申し訳ないが帰ってくれ。(ブラジリア)

i、学生達は、あなたの講演内容を学生新聞に乗せようとして熱心に聞いていたが、全く理解できなかった。ここの学生は田舎者だから、日本英語に慣れていない。新聞記事にならなくて申し訳なかった。(カンサスシティー大学)

j、ソ連の胡瓜や茄子が堅くて重いのは、ノルマの基準が重量になっているかだ。しかし良く噛めば味が出てくる。(モスクワ郊外のコルホーズ・野菜栽培工場)

k、蒙古語は日本語と同じ文法であり、戦争は一勝一敗で恨みなしだ。蒙古を長期間にわたって、占領・抑圧し続けている漢民族より、日本人の方が好感を持てる。(中国・フフホトの蒙古民族の役人)

l、日本からお見えになりましたか。近頃は日本人の旅行者が時々来られます。(与那国島の民宿の主人)

m、沖縄問題は地域問題ではなく、明らかにウチナンチュウの民族問題です。(那覇市。シンポジウムでの琉球銀行役員)

私は、旅行の他、スキーとパチンコに熱中し、その業界には、沢山の経営ソフトが蓄積されていることに気がついた。私には新しい知識を直ぐ本にするという癖がある。「スキーの経済学」と「路地裏の経済学」、それぞれ初めての業界分析の本だったので評価され、私は「腕前」ではなく「口先」で、業界の代弁者になった。

コロラド州政府やオーストリアのリフト・メーカー・ドッペルマイヤー社の「日本スキー業界への対策」に関するアドバイザーになり、また白馬村では一寸した顔になった。パチンコ業界から、吉行淳之介、土井たか子両氏とともに、第1回パチンコ文化大賞200万円を頂戴した。この2つの趣味の採算は黒字になった。

3, 時代に遅れ、低学歴になる。

私は、30才頃から、世間で経済学者並に評価されるエコノミストになりたいと思い、4つの目標を立てていた。幸いにも、それらはほぼ達成された。1つは東大で教えることだ。同じ鈴木ゼミにいた加藤三郎・東大教授が私に「電気機械産業の産業事情」の講師を依頼してくれた。2年間の授業だった。2つ目は朝日新聞で連載を書くことだった。80年代はじめに、「柔構造の日本経済」という一ヶ月の連載を書き、日本経済の強さは、長期雇用、年功賃金、ボトムアップの意志決定という企業の日本的慣行にあることを強調した。

3つ目は、NHKで経済解説の番組を持つことだった。「一億人の経済」を3年(3週間に一回、アナウンサー小宮山洋子氏)、「ビジネスネットワーク」(2週間に一回)を3年間担当した。4つ目は岩波書店からの出版である。雑誌「世界」に「サービス業の経済学」を一年間連載し、芸者、やくざ、サラ金、宗教などを取り上げた。

岩波の安江さん(後に社長)から新書にしたいという申し出があり、快諾したところ、間もなく、私を料亭でご馳走し、云い憎そうに「内容が岩波新書にふさわしくない。また連載を単行本にするのは大家に限る」という理由で社内の反対が強いから、申し出を撤回したいと云われた。4つ目の最も重要な目標は、夢に終わった。

私は、内外で調査する都度、単行本に纏めたので、結局、著作数は100冊を越し、テーマは内外の経済・産業、地方経済、歴史、宗教など多様であり、内容は経済学から相当離れ、荒いストーリーが多い。

現在の学者は一つの小さなテーマを長期間にわたって追い続け、そのために、2つ以上の大学に留学して、2カ国の外国語を話せるようになっている。最近の例でいえばアジアについては、a、19世紀前半における福建人・広東人の海賊とイギリス海軍との関係。b、2次大戦後直後、インドネシア華僑の帰国後の生活の特色。c、シンガポールのアパートにおける人種間の交際、こういうテーマを何年も現地で調べるのである。

学者は専門分野で未解決のテーマを細かく調べ、将来、それらが積み上がって、壮大な体系が形成されれば満足らしい。それに比べると、私の調査研究は現地におけるヒアリングや体験も種にしており、証明なしの単なる「経済夜話」に過ぎなくなった。 私は3年前に静岡県立大学の理事長になった。理事長の地位は学長の上である。ところが、私は東大経済学部卒の学歴しかなく、留学経験も博士号もない。外国語は英語だけであり、旧制高校ではドイツ語専攻だったが、すっかり忘れた。

理事長は入学式で歓迎の祝辞を述べるだけではなく、新任の副学長や学部長に対して辞令を交付しなければならない。彼らは私より遙かに高学歴であり、留学し、博士号を持っている。低学歴者は高学歴者に対して、抑えが効かない。1年勤めただけで理事長の地位をノーベル賞候補の基礎医学の大家・本庶佑氏と交代し、グローバル地域センターというエコノミストに相応しい研究が許さる組織に移った。

私は若い時から、半年近くを内外の出張で過ごし、土・日曜は趣味の調査で暮らし、日本固有の文化に触れる機会がなかった。これから最後の挑戦を試みるつもりだ。

昭和29年(新制)経済学科卒。現在、静岡県立大学特任教授・グローバル地域センター長)

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