随想・書評

静岡新聞夕刊 4月26日掲載

田口英爾さんを悼む

郷土人物史研究に情熱

田口英爾という異能な歴史作家が去った。彼は日本生産性本部の出版部長を辞し、50歳代の半ばで歴史作家に転身した。そのきっかけは、幕臣杉浦梅潭の曾孫から、40年間にわたる日記やメモがぎっしり詰まった行李の整理を頼まれ、それを見て知的に興奮した時である。東大史料研究所の小野教授に日記の解読を頼み、5年をかけて2巻から成る貴重な歴史的文献の出版に漕ぎ着けた。

その後、梅潭の家系や周辺の事情を細かく調べ、1995年に「最後の函館奉行の日記」(新潮選書)という見事な梅潭の伝記を書き、ロシア代表との緊迫した国境交渉、函館奉行所を明治政府に整然と移管する情景、明治維新前後の壮大な政治劇の場面等が正確な筆致で再現され、専門家から高い評価を受けた。

その頃、彼は次郎長が眠る梅陰寺の傍らに居を移しており(彼は住職の次男に産まれた)、情熱を郷土人物史の研究に傾け、短期間で「梅陰寺・清水次郎長伝」「次郎長と明治維新」「伏谷如水伝」(凶状持ちの次郎長を清水沿岸警護人に抜擢した人)、「7代目鈴木与平伝」「播磨屋物語」(清水の廻船問屋)等の作品を完成し、私と共著で「清水次郎長の経済学」(東洋経済)を書き、また「歴史街道」(PHP)等にしばしば研究成果を発表するという活躍ぶりだった。

次郎長については、幕臣の救済事業、静岡に集中していた留学帰りの元幕臣を先生にした清水英語塾、相良の油田開発、清水港からのお茶の直接輸出の試みなど、時代の変化を見抜いた活躍を発見した。

次郎長が晩年経営した船宿「末広」にはインテリ軍人・広瀬武夫等が頻繁に出入りし、後に広辞苑を作った新村出少年も訪れ、内村鑑三は著作で次郎長に触れているという。彼は清水史の生き字引だったので、一流の歴史学者、小説家、舞台俳優が取材に訪れ、彼の学識に触れ、交際を長く続けた人が多い。

徳川慶喜は静岡に蟄居している時、自転車を好み、清水の投げ網打ちに熱中し、また趣味の写真を楽しみ、次郎長が警護のため同行した。田口は慶喜が撮った風景写真の遠景に「本物の末広」を発見して、「末広」の復元運動を起こし、清水の新名所がつくられた。「清水次郎長翁を偲ぶ会」のリーダーは田口であり、毎年、次郎長史跡巡りの旅行を楽しみ、3年前には黒駒村(元)で、次郎長の宿敵・勝蔵一家と手打ちの会食をした。

田口は、私と旧清水市の岡小学校から東京大学経済学部まで同じコースを進み、小学生以来最大の親友であり、晩年には毎週のように会い、老いの繰り言を肴に飲んだ。彼の死とともに私の人生の半分が突然消え、無限に寂しいのである。名随筆家でもあった彼は碁が滅法強かった。清水の碁仲間も寂しいだろう。

生前通り、「田口」と呼び捨てにさせてもらった。


田口英爾さんは3月22日、82歳で死去。

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