随想・書評

静岡の句会

華化と俳句

昨年、私は誕生日に上海市政府から正式に万博に招待された。上海万博の企画は、私が1984年に中国政府に提案したこと発端だった。上海市政府はそれを覚えていた。シンポジュームのパネラーなどで、招待される時は費用は全額先方負担であるが、この時は格式高い上海政府の正式招待であるから、交通費は当方、滞在費は先方の負担という遣唐使と同じ条件だ。流石に歴史の國である。

遣唐使の時には、使節団は日本から贈り物を届けた後、しばらくの間先方に滞在して、文化・文明を吸収した後、文化的内容が豊富な贈り物を沢山貰って帰ってくるのだ。日本人はその文化に圧倒されて中国を尊敬し、その文化圏に喜んで帰属して「華化」され、さらに「漢字・漢文」を使うようになって「漢化」されたのだ。中国の理論では、正式招待の私は、当然「華化」されるはずである。

日本文化を振り返ってみると、明治の中頃まで、「華化・漢化」されていた。徳川幕府の学問は儒学であり、武士は専ら儒学を学んだ。夏目漱石、森鴎外、乃木希典を始めとして文学者も軍人も見事な漢詩を創った。それは基礎教養だったが、日露戦争後に変わった。芥川龍之介は日本の古典を読めたが、漢詩を創れなかった。

俳句は、日本固有の詩であるが、松尾芭蕉は、奥の細道の巻頭の「月日は百代の過客にして」は李白の詩を意識し、松島の情景描写は蘇東波の詩によっている。俳句が完全に「華化」を脱したのは、正岡子規からだろう。

日本の文学の主流は、昔から、政治、戦争、改革をテーマにしなかった。中世の日本は文学大国だったが、源氏物語を始めとした名小説は、長編でありながら、専ら複雑な男女を描くのに終始した。俳句も同じであって、小林一茶など、傍系の俳人が政治や国家を詠っただけだ。昭和初期のプロレタリア俳句は伸びなかった。

2次大戦の時、「戦争が廊下の奥に立っていた」(渡辺白泉)、「テントウ虫一兵我の死なざりし」(安住敦)と言う名句が生まれた。「戦争が」の句は少し粗野だった。「テントウ虫」の句は激戦に生き残り、銃にテントウ虫が止まっていた時つくられたのではなく、8月15日に戦争を振り返った時の句だった。
俳句は政治や戦争を正面から詠うのを避けてきた。これが李白や杜甫を始めとする中国詩人と決定的に違うところだ。この静かな姿勢は季語を大切にしたからだ。季語がある限り、今後、中国が勢いを増し、また日本経済が危機に落ち込んでも、俳句は少しも影響されず、心や風景を写生し続けるだろう。
私はエコノミストであるから、中国経済について、一党独裁政権のもとで、生活水準が目覚ましく向上し続けている奇跡を見て驚き、上海市政府の意図通り、かなり「華化」されてしまった。

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