中近東動向

2月15日

不安定なサハラ南部と不安なフランス人

壮絶なアルジェ独立戦争と内戦

アルジェリアには不幸な歴史がある。1830年以来、132年間、フランスが植民地として直接統治して、100万人のフランス人が移住して、広大な農地と森林と美しい海岸を奪った。カミュが生まれた美しい海岸都市・オランでは人口の80%をフランス人が占め、首都の港湾都市・アルジェでは70%がフランス人であり、彼らは豪邸に住み、豊かな生活を送った。

フランスの植民地政策は過酷だった。イスラム教の文献を没収し、図書館や宗教学校を閉鎖して現地の文化を奪い、教育を与えなかった。アルジェリア人は、識字率が10%という悲しい状態におかれ、フランス人の土地でワインやコルクガシ(コルクの材料)を栽培し、イスラム教徒にもかかわらず、葡萄酒の製造工場で働かされ、貧しく暮らした。

アルジェリア人が職を求めてフランスに渡る時には、狭い船底に押し込まれ、マルセイユ港ではアルジェリア人専用の狭いゲートで乱暴に扱われ、フランス国内では、最低の賃金の3Kの仕事で働き、売春婦やホームレスが溢れる貧しい地域に住み、病院もフランス人とは別だった。

アルジェリア人は、1931年以降、何回も独立運動を起こし、45年の反仏デモでは一万5000人が虐殺された。民族解放戦線(FLN)は、天然ガス資源を守るために、フランスが送った外人部隊を含めて200万人の軍隊を相手に、54年から8年間、熾烈な独立戦争を続けた。女性はベールに隠して伝令文を渡し、武器を運び、また爆薬の装填を引き受けた。

アルジェリアは、人口1200万人の内100万人が犠牲になり、400万人が家を失ったが、最後に勝ち、フランス人を追い出し、アラブ社会主義を目指す軍事政権を樹立した(竹内宏編「アルジェリアの経済開発」1984年)。フランス人にとって、ベールは挫折と屈辱のシンボルのように思われた。
FLN政権は、国有企業の効率的な経営に失敗した上に、独立戦争後、出生率が高まり、人口が激増した青年層は失業して街に溢れた。その結果、反政府感情が強まり、90年の選挙では、イスラム政党が圧勝した。

軍部は、イスラム原理主義の台頭を恐れて直ちに内戦を起こし、テロの応酬による一〇数万人の犠牲を払い、遂に、FLN政権を守りきった。その後、軍部の他に、独立戦争を知らない官僚が力をつけ、また民営企業の影響力が拡大して、次のような政治勢力が生まれた。

  1. 反仏・反イスラムの軍部
  2. 反仏感情が薄い官僚・経営者
  3. 戦乱を嫌う国民
  4. 反政府・反仏であって、テロを恐れぬイスラム原理主義者

政府は、4つの勢力のバランスが崩れて、内戦が発生するのを恐れ、言論統制、集会・結社に対する厳しい制限、秘密警察の活躍等によって、現状維持に務めた。

アルジェリアの人質事件の背景

アルジェリアは世界第2位の天然ガスの埋蔵量を持ち、天然ガスと原油の輸出に依存した経済である。戦乱の期間が多かったので、教育やインフラに対する投資が遅れ、そのため、製造業が発達せず、若年層の失業率は25%に達した。しかし、4つの勢力間に微妙なバランスが保たれ、2010年から拡がった「アラブの春」の政治運動の影響を受けず、政権は安定だった。

ところが、失業者の一部は、2000年代に入ると、イスラム原理主義者になって、サハラ砂漠南部の山岳地帯に国境を跨いで立て籠もり、国際的なテログループに接触して、誘拐、麻薬取引等によって、闘争資金を稼いでいた。

彼らが、今回、イナメナス人質事件を起こした。もし、要求が貫徹されれば、イスラム原理主義者の力が増し、4つの勢力バランスが崩れる可能性が大きかった。また、天然ガスプラントが破壊されれば、政府は致命的な経済的打撃を受ける。政府は精鋭部隊を派遣し、有無を言わせず、人質ごとテロ部隊を殲滅してしまった。

フランス軍は、サハラ砂漠の南側や西側の国々で勢力を伸ばしているイスラム原理主義グループに対して、まずマリとの地上戦を開始した。ところで、多くのアルジェリア人にとって、フランスは憎むべき旧敵国であり、フランスにいる約500万人の移民の多くは、差別と貧困に苦しんでいる。とても、サハラ南部、西部の反イスラム原理主義との戦いで、フランス軍と共同戦線を張れない。

年配のフランス人には、アルジェリアの女性が独立戦争の時ベールで顔を覆い、密かに武器を運ぶ姿が焼き付いて離れないという。その上、90年代の内戦ではイスラム軍が徹底的に抵抗し、01年にはニューヨーク同時多発テロが発生し、アフガン・イラク戦争では、イスラム軍は敗れなかった。

フランス人の目には、ベールとイスラム軍の脅威が結合して見え、04年には公的な場所におけるスカーフの着用を禁止する法律が成立した。サハラ砂漠周辺では、軍部、イスラム原理主義者、フランス人(欧州人)が三つ巴に対立しており、次第にイスラム原理主義が優勢になりそうだ。根本的な解決方法は経済成長による失業率の低下しかない。(以上は、静岡県立大学・グローバル地域センターのホームページに記載)

フランスの政教分離

フランスの歴史を振り返ると、1792年の革命によって、「自由、平等、博愛」の理念を基礎とした平等な中央集権の国に変わった。16世紀までのフランスは、地方の領主とカトリック教会が権力を持ち、国家の形態を成していなかった。

しかし、次第に経済が発展し、商業化の波が押し寄せると、農業を基盤とした封建領主の力が衰え、それに代わって、商人と結合した国王の権力が強まり、絶対主義王政が確立した。ルイ14世の時、王権が最も強力になり、領主や教会を支配下に収め、中央集権国になった。

市民は、領主や教会の圧政から自由になると、今度は、それに代わって支配力を強めた王制に反抗した。しかも、1790年頃のヨーロッパでは、寒波が続き、人々は飢えに苦しめられていたので、遂にフランス革命が発生した。その結果、フランスは、国王をトップにする身分制の国から、一つの理念の下に全ての国民が平等になる共和制に変わった。

日本は、明治維新によって、近代的な中央集権国家になり、身分制を廃止し、国民は天皇の下に全ての日本人は平等にあるという「一君万民」の体制が成立した。その時、日本人とは誰かという問題は全く生まれなかった。「日本人が日本人である」と考えた。

ところが、ヨーロッパでは、日本と違って、何処までも地続きであって、はっきりした国の意識が生まれない。中央集権の国と言っても、未だ領土の寄せ集めに過ぎなかった。市民が革命によって、新しい国を創るには、市民の国家への帰属心を高めるためにまず身分制を廃止し、同時に魅力的な統合の理念を必要である。

そこで、フランスでは「自由・平等・博愛」という理念の下に、国民はすべて平等になった。しかし、フランスは、長い間、地続きの国と戦乱を重ね、人口が移動し、人種が入り交じっているから、フランス人とは誰かがはっきりしない。そこで、フランス人とは、フランス共和国の理念や社会制度の原則を受け入れ、それを守ることを約束した人であると決めた。フランス国家とこの契約を結んだ人は、人種や出身国を問わず、フランス国籍を取得できる。フランスで生まれた人はフランスの理念を体得しているはずであるから、フランス人である。

ところで、宗教は、一旦染み込むと抜けないものだ。フランス革命後も、カトリック教会は、教育や福祉の分野で、強力な政治的影響力を残したので、共和国政府と教会が争い、1905年に教会は、政治的行動をしないという「政教分離」の法律が成立し、フランスの最も重要な制度になった。どの宗教を信じても自由であり、また私的な分野では布教活動も自由であるが、政府や地方自治体が宗教団体に支出したり、聖職者が政治的活動をすることが禁じられた。

スカーフ問題

スカーフ事件は、1989年に、パリの北50キロにあるクレイユ町で起きた。教室でヘッド・スカーフを脱ぐことを拒否した3人の少女が中学校から放校になった。イスラムの移民が増加の一途を辿っていたので、スカーフ問題が、フランス各地で発生し、スカーフを禁止する学校と、認める学校に別れ、世論も賛否がほぼ同数になった。

スカーフ反対論の論拠は、つぎに2点である。

イ)スカーフは目立ちすぎる。それはイスラム教の普及を目的にしてと判断せざるを得ない。それは「政教分離」違反である。

ロ)スカーフは、イスラムの女性蔑視の現れだ。イスラムの女性には a.女性の単独外出、b.夫・兄弟以外の男性との会話禁止、c.夫・兄弟以外の男性には、顔をベール(スカーフ)で覆って見せないといったルールが課せられている。

イスラム女性に対して、まず学内でスカーフを禁止するのは女性解放の第一歩であり、それは平等の理念を持つフランスの義務である。

賛成論は次のように主張する

イ)布教活動をしない限り、学校内でスカーフを付けるのは自由である。

ロ)スカーフをつけるのは、「頭髪を人目に曝すな」というアッラーの教えにしたがったものだ。イスラム教徒は、頭髪は性的な感じを与えるから、隠すべき処と信じている。スカーフをとるのは、街中で裸体になるのと似て、大変に恥ずかしいことだ。スカーフをつけることこそ、女性の基本的人権であり、慎ましさの象徴である。欧米人は「性の解放」を正しい方向だと信じている。これに対して、イスラム教徒は男女の社会的な分離こそ正しいと思い、セックスが乱れ、ホモまで大手を振っている欧米文化を心から軽蔑し、嫌っている。彼らは地獄へ行くに違いない。スカーフを付けるのは、イスラム固有の文化であり、フランス人がそれを認めることこそ「平等」である。

ハ)今まで、学校では、十字架のペンダント、キッパ帽子(ユダヤ教)、ターバン(シク教徒)について問題にならなかったが、スカーフの生徒が現れると、15年間も国を挙げての論議になった。これは、明らかに、イスラムに対する差別感があったからだ。

結局、04年に、学校のような公的な場所で、十字架ペンダント、キッパ、ターバン、スカーフを付けることは、法律で禁止された。

フランスにおけるイスラムの脅威

アルジェリアを始めとして、マグレブ3国では、出生率が高く、経済が低迷を続けたので、70年代後半から、フランスへの移民が増えた。移民には2つの人生があった。

第1グループは、旧植民地における現地人エリートであって、正確なフランス語を自由に話し、高等教育を受けている。フランスの理念を尊び、文化を吸収して、まるでフランス人になっている。彼らも、彼らの師弟も、差別なく、フランス人として、満足して生きている。

第2のグループは、貧しくて教育も受けられず、食うために些かの希望を懐いて、移民した人であり、低賃金の3Kの仕事で生活してきた。大都市郊外の低所得住宅が拡がる地域に住み、子供に対する教育もできないので、貧困が伝承され、スラムで生まれた子供が、新しいスラムをつくっている。彼らの多くは、イスラム教に幸せを求め、イスラム宗教共同体に生きている。

宗教は神の信じ方と生活の仕方に係わっており、俄に変えがたい。イスラム教では、神が生活を決めたので、宗教は生活そのものだ。金曜日の礼拝には、そろってモスクに集まる。断食月には、毎日、断食の勤めが終わった夕食には、家族でご馳走を食べ、断食月開けには、親戚や友人が集まって神に感謝しつつ、生きた羊の首を切って、血を抜いた肉の料理と談話を楽しむ。イスラムの生活は、人との交流を深め、宗教合宿のような充実した日が続くのである。

イスラム教徒は、恐れや不幸を感ぜず、貧しくても、心豊かな人生を送れる。アラーを信ずれば、人生を如何に生きるべきかとか、自分探しとかいった問題は意識されない。死後には緑が豊かで蜜の河が流れ、豊富に酒が飲め、絶世の美女ばかりの天国に行ける。

フランスにおけるマクレブ3国の移民数は500万人に達した。その大部分は、貧しいイスラム教徒であり、スカーフを付けているのは、その住民である。

また、フランス化し豊かになったグループの子女でも、進んでスカーフを付ける人が増えた。彼女達はスカーフを付けることが、フランス文化から、自立した新しい女性だと感じている。フランスは、イスラム教を恐れて、リビアに出兵し、マリで戦い、また、シリア反政府軍に武器援助している。アルジェリアの人質事件では、テロの武装勢力は、動機についてフランスのマリ出兵に対する抗議するためだと述べている。アルジェリア、マリ、ニジエール、モーリタニア、チャドなど、サハラ砂漠南部に拡がるフランスの旧植民地では、貧困と人口圧力に押されて、テロ勢力は強まる一方である。テロは、フランス国内に移るかもしれない。

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