日本動向

静岡新聞論壇 10月15日掲載文

ノーベル賞学者が育った時代

産学共同 宇宙の謎に迫る

日本の素粒子・物理学は、理論だけではなく、実験でも日本は世界の先端を歩み、2002年の小柴昌俊氏に次いで、今回、梶田隆章氏がノーベル賞を受賞した。

その実験設備「カミオカンデ」(東大宇宙線研)は、地下1000メートルに、純水3000トンが入った直径15.6メートルの円筒であって、その内壁に超大型の光電子増倍管1050個がぎっしり並べられている。

小柴氏は、宇宙から降り注ぐ多様な素粒子が地下千メートルに達する間に地層に吸収されてニュートリノだけが残り、それがカミオカンデの純水に突入して微細な光を発すると予想した。光電子増倍管は、その内部の光電面に微細な光が当たると、1千万倍の電気的な信号に変える機能を備えている。

浜松ホトニクス(浜ホト)の晝馬輝夫氏は、小柴氏から口径が世界最大の3倍の大きさの光電子増倍管の生産を依頼された。大口径の光電子増倍管を沢山並べれば、ニュートリノの存在を証明できるのである。

浜ホトが最も苦心したのは、大きな表面積を持ち、かつ巨大な水圧に耐えて微細な光を通す球状ガラスの製造と、ガラス管と増倍部とのシーリングだった。高度な技能が要求された。

クリスチャンの晝馬氏は、ニュートリノを通じて宇宙創造の秘密を解明したかった。また光の絶え間ない微細な振動が、生物の遺伝子を変えているはずだ。その振動を超精密な光電子増倍管で検出できれば、生命の本質に迫れる。彼は、喜んで世界水準を遙かに抜く光電子増倍管を受注し、赤字を出したが、それによって、光産業では、技術的に世界のトップ企業に成長した。

浜ホトは、高柳健次郎博士(世界で始めて「イ」文字を送受信したテレビの開発者)の門下生によって、敗戦直後、浜松工専(現静岡大工学部)の研究室で設立され、戦災の焼け跡小屋で、技術者、工員、学者が一体になって、真空管等の電子製品を生産した。

大口径・光電子増倍管の開発でも、この社員一体と産学共同の伝統が生かされ、静大の学者からアドバイスを受けつつ、技術者と技能工から成る20人のプロジェクト・チームによって進められた。

科学研究は実用性重視に

「カミオカンデ」でニュートリノの観測を始めた直後の1987年に、神の恩寵か、15万年の昔に巨星が大爆発し、発生したニュートリノが地球に降り注ぎ、小柴氏は、ニュートリノの存在を証明できた。

その後、純水5万トンを擁する「スーパーカミオカンデ」が建設され、そこで梶田氏が、96年に、ニュートリノに質量があるという大発見をし、今回ノーベル賞を受賞した。

「カミオカンデ」は、日本経済の最盛期の80年代に建設され、政府は実用的価値ゼロの研究に巨額な予算を付けた。企業では大卒と高卒が一体になって働き、また夢を追う経営者が存在し、ノーベル賞学者が育つ良い時代であって、ついに日本はノーベル賞受賞大国になった。しかし、現在は科学研究費が圧縮され、内容は実用性が重視され、次世代を育む土壌が失われつつあるのが心配だ。

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