価値総研「Best Value」

2005年1月

金融危機の決算

1. グローバル化のリスク

2次大戦後の日本経済は、戦後復興をとげた後、高度成長期(1955年から73年まで・実質経済成長率9%)、安定成長期(1974年から90年まで・実質経済成長率・4%、)、低成長期(1991年から現在まで・実質経済成長率1%、)の3つの期間を経過した。

高度成長期には、日本中に、キャッチアップ・スピリットが漲り、熱病にかかったように欧米から新技術を導入・消化して、国際水準に達する製造業をつくり上げた。安定成長期には、軽薄短小の製品を創造する産業が伸び、高エネルギー価格に耐える経済産業に変わり、資源小国の欠点を克服した。

またアメリカとの貿易摩擦を緩和するために、円高政策に協力し、さらに日本の経済システムをグローバル・スタンダードに近づける努力が始まった。それは、実質的には、アメリカン・スタンダードであって、自由な市場経済システムをつくることだった。

ところで、どの国にも共通する自由な市場経済は存在しない。実際に存在するのは、歴史的・文化的な要素が強く働いている慣行的な市場経済である。例えば、日本では、中央政府が強力な権限を握っており、大きな政府が膨大な公共事業を実施している。また郵貯や簡保のような巨大な国営金融機関が存在している。農業、医療、教育を始めとして、大きな産業分野が政府の厳しい規制下に置かれている。まだ、多くの企業では長期雇用の慣行を守っている。

こうした国が突然アメリカン・スタンダードの自由市場にに変わろうとすれば、当然大きな混乱が発生する。日本経済が「低成長期」に落ち込んだ最大の原因は、バブル経済が崩壊して、企業が著しい債務過剰に落ち込み、また銀行の不良資産は膨張して、銀行は経営危機に当面して、融資能力を失ったことである。今から考えると、驚くべきことであるが、政府は、自由化によって銀行間の競争が激化して、不良債権が増え、銀行の危機が続くと、信用が縮小して、デフレ経済に落ち込むというリスクを検討せずに、金融のグローバルスタンダード化を目指して、自由化を進めてしまった。

日本の伝統的な考え方によると、優れた官僚が理想に燃えて強いリーダーシップを発揮して、経済システムを引っ張っていくものだ。官僚はあらゆる既得権益を超越し、清貧に甘んじ、正義のために生きる「士」だった。明治政府はそういう人材によって支えられ近代化を達成し、2次大戦後の高度成長は官僚の活躍によって支えられた。

ところが、グローバル・スタンダードが広がり、専ら市場の原則がそれが経済を動かすシステムに変わると、官僚は業界を「指導する」必要がなくなる。彼等の機能は、まずは市場経済の原理が貫かれているかどうかを監視することであり、つぎに市場経済の原理が働きやすい環境をつくることだ。また、彼等の政策も市場原理を利用して実施しなければならない。

これは実に難しい仕事だ。どの官庁も、キャリアー官僚を海外に長期留学させて、専門的理論を蓄積させたが、彼等は実際に企業で働いた経験がないので、専門な経済理論は抽象的なレベルに止まり、実践には役立たない。

不幸なことに、エリート官僚には民間を指導すべきだというDNAが残っており、また彼等は、海外で先端理論を学び、権力を使って最先端情報を集め、海外の一流な知性との交流もあるから、自分たちの判断が何時も正しいという自信を持っている。金融業界では、官僚に真正面から反論すると、陰鬱な虐めに合うから、得策ではないと考えている。こうした官僚が、市場経済の実際を熟知した世界の腕利きの金融マンや行政官を相手にして、国家や国民の利益を守れるだろうか。

社会保険庁は資金運用に失敗して、大きな赤字を出した。素人の官僚が生き馬の目を抜くプレヤーが揃っている世界の証券市場で勝つわけがない。赤字が累増した時には、当然、責任者の交代、人事や組織の大改革、人員整理、無駄な費用の削減等、当たり前リストラを実施するはずであるが、企業経営の経験がないので、そういう対策をすら思いつかない。思いついたとしても、実施する能力がない。

ケインズは「レッセフェールな資本主義」には自動調節能力がなく、完全雇用を達成するためには政府の市場への介入が不可欠であって、その政府を担うのは、厳しい道徳律をもつ知的エリートでなければならないと考えた。日本経済は、市場経済化されたと言っても、未だ、政府が市場に介入しているので依然として、知的洞察力に優れた道徳的なエリートが必要である。しかし、そういう認識なしに、アメリカによるグローバルスタンダード導入の要求に応じてしまったように思える。その結果が「低成長期」を生んだようにだ。

芥川龍之介は「ぼんやりした不安」を感じて自殺したが、グローバル・スタンダードの広がりと、それを素直に受け入れた官僚の行動をみると、私たちも将来に「ぼんやりした不安」を感ずるのである。まず、以下では、金融界について、不安の内容を考えてみよう。

2. BIS規制の導入

80年代中頃から、アメリカ政府の強い要請に応じて、金融が徐々に自由化された。その頃、プラザ合意とそれに続くルーブル合意によって発生した円高不況を克服するために、日本銀行は金融の大緩和政策を続けていた。企業は金融緩和によって充分な流動性を持っていたが、不況によって資金需要が減少していた。そこで過剰な資金は不動産や株式の投機に向かった。

その頃、バーゼルの国際決済銀行では、国際金融活動に従事する銀行の自己資本比率を8%以上にするというBIS規制が決まり、日本政府は、このグローバルスタンダードを受け入れた。

BIS規制の根拠は、まず、資金の国際的な移動が激しくなったので、一国における銀行危機が世界に波及して、世界経済が大混乱に陥る可能性が生まれたことだ。日本の金融が自由化されので、銀行間の競争が激しくなり、不良資産が増加する可能性がある。自己資本比率を高めておくのは当然だと考えられた。

しかし、BIS規制制定の実際の理由はつぎの点にあった。日本の銀行が豊富な資金をもって国際市場に参入し、瞬く間に主要なプレヤーになった上、欧米に進出した日本企業を金融的に援助している。例えば、日本の不動産会社は、日本の銀行から低利資金を大量に借り入れて、ロックフェラーセンターを始めとする伝統ある不動産を買い占めた。日本の銀行は、自己資本比率が数%の低さであるが、政府の厳しい規制の下に置かれているから信用があり、豊富な低利資金を吸収している。これは国際的にみると、不公平である。日本の銀行の自己資本比率を欧米並みに高めるべきだと言うのだ。

この頃、金融が緩和している上に、銀行の業績が良好だったので、銀行は増資すれば簡単に自己資本を増やすことが出来た。また、銀行は膨大な数に達する取引先企業の株式を所有しており、金融緩和によって株価が上昇していたので、所有株式の含み益は巨額に達していた。日本の主張が通り、BIS規制では、株式の含み益の半分が自己資本に加算できるようになった。バブル経済期には、銀行はBIS規制を受けても、何ら不都合がなかった。

銀行にとっての最大の課題は、貸し付け競争に勝つことだった。というのは、製造業でも、非製造業でも、大企業はバブル経済に支えられて、収益が好調であり、また増資や社債の発行によって、内外の資本市場から低利な資金を幾らでも調達できた。

ところで、金融の自由化のテンポが遅く、銀行は、急速に膨張していた国内の証券市場に参入することを禁止されていた。銀行が業績を伸ばす対象は、不動産や株式へ投機資金しかなかった。銀行間の激しい貸し出し競争によって、巨額な資金が不動産市場と株式市場に流れ、地価と株価が急騰し、それは一層投資を煽った。

中小企業が土地や株式投機によって、短期間で、大企業なみの資産を持つようになった。日本銀行は、一般物価が安定していたので、地価や株価の急騰はインフレではないと判断していたので、金融引き締めのタイミングが遅れた。大都市サラリーマンは地価の上昇によって、自宅を変えなくなり、土地の売り惜しみが広がり、大規模な宅地開発も不可能になった。

3. BIS規制とデフレスパイラル

1989年から、日本銀行は金融の引き締めを開始し、大蔵省は銀行に対して、不動産業、ノンバンク、建設業等への融資を厳しく抑制する行政措置をとり、バブル征伐を開始した。投資資金の供給が止まり、まず株価がついで地価が下降の一途を辿った。93年から96年にかけては、景気が回復して株価は一時上昇したが、97年における増税とともに、景気が失速し株価は再び急速に低下した。こういう状態になると、BIS規制はデフレを加速するという機能を果たすようになる。

まず銀行のバランスシートの資産側をみると、不動産価格の低下し続けるとともに、不良資産が累増の一途を辿った。負債側では、株価が大幅に低下して、含み益が消えるどころか含み損が発生し、BIS基準の自己資本が激減し、自己資本比率は、遙かに8%の水準を割ってしまった。すでに、94年頃から、中小金融機関が倒産し始めており、銀行の信用が失われているので、97年末には、拓銀や山一が倒産するという状態であるから、銀行の増資に応じてくれる先がない。

そこで銀行の取るべき方法としては、次の3つの方法しかなかった。1不良資産の査定を甘くして、経理上の不良資産を減らし、経営危機を先送りする。2公的資金による資本注入を受けて自己資本を増やし、政府の管理下で厳しいリストラを実施する。3貸付額を減らすために、貸付資金を回収して、かつ新規融資を減らす。

1の資産査定を甘くする方法については、98年頃から、金融庁による資産査定基準が厳しくなり、評価基準と貸し倒れ引当金率はグローバルスタンダードに近ずいた。資産査定が甘い場合には、銀行の経営者は粉飾決算として、刑事責任を追求された。

これは、日本の銀行危機を防止したいとアメリカ政府の強い要求の結果だった。アメリカ政府は、日本の銀行が弱い体質にあるから、アジアの金融危機が拡大することを恐れた。貸し付け資産を厳しく評価して、危ない銀行はどしどし倒産させ、強い銀行だけを残せば、日本の銀行システムは強くなると考えた。そのために、一時的に経済的混乱が発生してやむを得ないと判断していた。

バブル経済が崩壊して、本格的な金融危機が到来するという最悪の時期に(97年)、不幸にも、ビッグバンが実施されて、国内の金融機関間の垣根が取り払われ内外の金融が一体化した。アメリカ政府は、日本の金融危機に強い関心を持つのは当然だった。

2の公的資金の投入については、アメリカは98年前半までは、それによって弱い銀行が生き残る可能性があるという理由で反対だった。しかし、98年8月のロシアのルーブル切り下げによって、アメリカの大手ヘッジファンドが大損失を受け、アジアの金融危機と相まって、世界的規模の金融危機に拡大しそうになった。日本が公的資金の投入と景気刺激政策をセットにして実施しなければ、アメリカ経済も大打撃を受ける。

ところで、日本の世論は銀行への公的資金の投入に激しく反対した。どんな産業でも自由化すれば競争が激化して、弱い企業が倒産するのは当たり前だ。銀行は決済機能を持っているので、倒産すれば企業が取引の決済が出来なくなり、企業や銀行の連鎖倒産を誘発して、経済は大混乱に落ち込むはずだ。また、日本では、国民の金融資産は主として銀行預金であるから、銀行が倒産すれば、一部の国民は財産の大部分を喪失する。銀行の倒産は国民経済に対して、他の産業における企業倒産よりも、遙かに深刻な打撃を与え、社会生活の混乱をもたらすものだ。

ところが、ジャーナリズムは、金融自由化とともにセイフティーネットが必要であることも、銀行危機が国民経済に与える深刻な影響も全く理解しなかった。テレビキャスターのノーテン振り酷かった。公的資金の投入は一種の証券投資であって、将来返済され可能性が大きいにも拘わらず、「それは税金の無駄使いである。国民の負担によって、銀行を救済しようとしている」と報じた。政府は住専問題を解決する時、税金を使って農協を救済したという実績があるので、反論できなかった。政府は恐る恐る公的資金の投入を始めた。それは、最初小規模にし、銀行の経営危機が深刻になるにつれて大規模にするという最悪のやり方になった。

そうなると、銀行の主たる対策は、3の貸し付け資金の回収と新規融資の削減しかなかった。経営不振な企業は貸付金を引き上げられ、前向きな投資を実施したい企業は、融資を受けられなかった。この貸し渋りが、日本経済の低迷を長引かせる最大の要因になった。銀行の貸付残高は、97年をピークとして04年までに、20%以上も減少した。企業利益は減り、倒産や失業が増えた。これによって、デフレ、株価の低迷、銀行の自己資本縮小、金融危機の継続という悪循環が03年まで長く続いた。

今から振り返ると、もし、実際に次のような政策や企業戦略が実施されたならば、デフレ経済を避けることが出来ただろう。まず、97年から実施されたなら増税を地価の低下が止まるまで延期する。次に、資産評価を厳しくして、早めに数兆円規模の公的資金を資本注入する。最後に,自己資本比率が一時的に8%以下になり、国際取引を中止する覚悟で、不良資産の償却を進め、大規模な公的資金の注入を受ける。つまり銀行はBIS規制を重視しないことが重要だった。

4. 安上がりの資本注入

しかし、実際は逆であって、すべてが手遅れになり、3つの大銀行が倒産し、合計35兆円もの巨額な公的資金が投入された。銀行が倒産すると、取引先企業は資金のパイプが切断されるので、経営が困難になり、銀行から借り入れていた資金は返済不可能になる。つまり、倒産銀行は、不良資産が激増するので、必ず債務超過に状態になり、普通銀行は預金の引き出しに応ぜられないし、長期信用銀行は金融債を償還できない。

受け皿銀行が倒産銀行を引き継ぐには、債務超過分を穴埋めするための「金銭贈与」が必要だ。そのため、政府から、それぞれの受け皿銀行に対して、拓銀について3・3兆円、長銀について4兆円、日債銀について3・5兆円など合計13・8兆円が贈与された。また、政府は受け皿銀行が受け継いだ貸付債権に瑕疵があった場合、その債権をそっくり買い取った。その合計は9・3兆円に達した。そのなかで、昨年末までに4・8兆円転売された。つまり、政府は、倒産した銀行を再建するために、受け皿銀行に対して、差し引き18兆円を超える公的資金を投入したことになる。

これに対して、銀行の資本不足を解消するために投入された公的資金の合計額は12・4兆円であって(そのうち3・3兆円は返済されたので、現在は9兆円)、倒産銀行の再建に較べると非常に少ないだけではない。公的資金の投入する際、政府は大規模なリストラや合併等、経営改革を条件にすることが出来る。その結果、銀行が立ち直り、収益を挙げるようになれば、公的資金の投入によって、取得した株式の価格が上昇するから、政府は、それを売却して利益をあげることが可能だ。兎に角、銀行が存続しさえすれば、少ない公的資本の投入額で立ち直れるのである。

ところで、銀行がどの様に公的資金を利用した不良債権を処理したか、ごく粗い計算で示してみよう。

バブル崩壊によって、地価は総計で約1200兆円減少した。その内、企業が所有していた土地の減価額は約200兆円である。バブル期にそれを購入した場合には、銀行借り入れをしており、それは約100兆円と見られる。そのほとんどは返済不可能になった。 銀行の不良資産の大部分は土地がらみの融資だった。97年頃から03年までに、謝金を棒引きして60兆円を直接償却した。銀行の年間純利益は約5兆円であるから、10年間以上の利益を放出したことになる。

残りの40兆円に対しては、引当金を増額するため、公的資金の投入によって資本を増強する必要があった。今までに、12・4兆円の公的資金が投入され、銀行全体を通じてみると引き当率は30%を越した。公的資金の1部は返却され、ようやく不良資産の処理は終了に近づいた。

こうしてみると、資本に対する公的資金の投入が、最もコストが低い不良資産処理の方法であることがよく判るだろう。早めに、大規模な投入が行われていれば、金融混乱の中で、リップルウッドを始めとする海外のヘッジファンドが、再生ビジネスで巨大な利益をあげるチャンスもなかったはずだ。彼等は、日本政府や銀行が犯した失敗を穴埋めした格好だ。

5. 社会の安定

97年以降、銀行危機とデフレ経済が重なったが、日本の社会は安定していた。それは、まず、第1に、預金や金融債がすべて100%保護された。第2に、貸し渋りによってもたらされたデフレを克服するために、年間40兆円を超える財政赤字が続けられて、雇用や生活が守られた。同時に、公共投資が拡大して、社会資本は充実したので、生活環境は目覚ましく向上した。第3に、地価が暴落したために、庶民は職場の近くに住宅を持て宇用になった。都心に狭いマンションを持ち、ウイークエンドを別荘で過ごす人が多くなった。郊外に住んでいる人も、交通インフラが充実したので、通勤ラッシュが緩和された。 第4に、中国経済が目覚ましい成長を遂げた上に、円高になったので、安い消費財が続々と輸入され、庶民の生活水準は向上した。

第5に、デフレ経済によって、名目賃金が低下し、労働分配率が低下した。賃金上昇のトレンドが消えると、製造業の国内設備投資が拡大してきた。特に、高級な部品や素材や機械の生産は国内で行われるようになり、製造業の空洞化傾向は止まったようだ。経済に対する暗い見通しが減ってきた。第6に、政界やジャーナリズムにおける官僚批判、既得権益批判の高まりが、国民のガス抜きになった。

今までのところ、日本の社会を満たしている柔かな構造が、金融行政の失敗をなんとかカバーしてきた。

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